思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

そうだ、物理学者になろう

※ただのポエムです

 

多くの人、とりわけわたしと同年代の人の心にはDQ7が深く根付いているものだと信じている。

はじめて感じたのは時のオカリナだった。しかしその兆候のみで、明確な感情と言うには些か弱かった。その明確な感情たり得るものを観測したのがDQ7だった。ただつらかった。それを当時わたしはこう表現していた。「いい意味で気分悪い」と。よくわからない。しかしこれ以上の表現は果たして存在するのか。のちにこの感情は「鬱」と呼ばれるものに近いことを知った。ならば鬱と表現するのが適切だろうと思い一定期間使った。しかしどうもしっくりこない。ある程度時間が経って、その鬱という感情を感覚的に理解し始めた時、そんなことを思った。そして昔を思い出し、再び「いい意味で気分悪い」と言った。やはりこちらの方がしっくりくる。

単純に想い人を失った、それだけでは成し得ぬ感情の揺れ。いつの日か、同じ時間軸にあの人は存在していた。なのに今はいない。どう足掻いても会うことは叶わない。何故なら同じ時間軸にそもそも存在していないから。これは死別に非ず。死という生き物としての文節を見届けることすら叶わない。

そんな或る時、船に乗っていた。一枚の石板が流れてきたのだ。何かを感じた、見なければならないと感じた。そこには時空を隔てた友の言葉があった。ただ悲しくて、ただ嬉しくて、それでもやっぱり、悲しかった。君は確かにあの時代に存在したものとして一生を全うした。わたしと同じ時間軸を生きていたのに、気が付けば君は遥か昔の人だ。物理的な距離、それもそうだがそれ以上に精神的に遠くへ行ってしまった。子供のままではいられない、そんなとき大人になってゆく友人を眺める光景に似ている。

時間という壁、それは物理的認識を遥かに超えたあまりに大きい壁である。故にこそ、反射する感情は相応だ。

100年、1000年、それは悠久とも言える永き時。普通の人間はその時間を一度の命で乗り越えることは難しい。事実上永遠の別れとなる。しかし伝えたかった、会えぬと分かっていても、伝えることはできる。ああ、愛する人よ、どうかこの想いを受け取ってほしい。あなたは気付くだろうか。ここに、この世界に、確かにわたしが生きた証は、あるんだ。

勿論気付いている。そしてわたしは涙を流す。ああ、あなたは確かにこの世界に存在していたんだ。わたしへのメッセージ、確かに受け取りました。あの、桜の雲を凌いで、その想いは生きているのです。

なんて、なんてポジティヴなのでしょうか。わたしには到底できぬ思考です。たとえ「あの人」の想いを踏みにじることになっても、たったひと時、たったひと時だけでも後ろを向くことは叶わないのでしょうか。でも、だからこそあなたの決意が尊く見えるのです。わたしは「主人公」にはなれないでしょう。物語も終盤、なのに成長を見せない。いけない、あまりに滑稽だ。駄作だ。でも、そんな主人公との対比が面白い。わたしは登場人物ではなく、飽く迄読者。視点は主人公にあっても心は同一ではない。

あなたは、一瞬だった。しかし先を想うことはできずに暗闇を進む。

あなたは、悠久の時を生きた。だから先を想い、生きることができた。

幸せなのはどちらでしょう。きっと、どちらも幸せだ。前を向いて、あなたを克服しよう。しかしあなたはあなたを想い続ける。矛盾しているようで成立している。永遠に心にあなたを想うことが克服することに他ならないのだから。

誰にも負けないよ。だって「永遠」の時を超えた想いがあなたたちにはあるんだから。

でも、会いたい。読者であるわたしはそう思ってしまう。そこには時だけではない。次元の差異もある。

あ、そうだ。  物理学者になろう。

 

「永遠」の時を隔てた関係って……素敵だよね。わたしはそんな素敵な世界を見るために、一生に一度の別れを知るために、新たな宇宙を作って、臨むこととするよ。そうしたら、既に手元にあるであろうタイムマシンに乗って、会いに行くんだ。

どんな文学的な出来事も、空想上の出来事も、みんなわたしはこの身に欲しいよ。