思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

それはうつくしいけれど、とってもこわい

 

ついさっき、DLsiteにて『for elise~エリーゼのために』のページを見ていた。誰かがいつか『さよならを教えて』前にこれをプレイしろ、そう言っていた気がする。さよ教はいつか、まだ大学生になりたての頃にプレイした。存在自体は前々から知っていて、大学に入ったらすぐにプレイしようと思っていた。今思えばこれは非常に幸運であった。その頃はまだ物語に対して傍観者に徹することができていたから。物語で泣くという行為を嘲笑っていた時期だから。しかし現在、わたしの心は嵐のようにその様相を変えている。ここ最近、心は留まることを知らず、果ては自己の内に更なる嵐を発生させるに至った。まさしく凪であった数年前と違い、激しく波打つわたしの心は「狂気」という海底火山の噴火の如き横槍によって正常が遥か彼方に霧散してしまった。

今わたしがさよ教をプレイすれば、否、それすら不可能である。

物語は受け取る感情がわかっていればその感情は濃度の低いものとなるだろうか。それも否。真に「良い物語」とするならば、二度目三度目であってもその感情に相違はない。客観的事実としてわかる現象は確かに劣化が見られる。しかしその時感じる「想い」が別ものであったとは言えない。

さよ教は「凪」であったわたしですら気分を悪くせずにはいられず、到底現在のわたしに耐え得る代物ではない。

しかし、もう一人のわたしがこんなことを言う

「絶望に喘ぎ、苦しみ、救いを願うわたしの姿は、さぞかし美しいのでしょう」

と。散々主観的にわたし自身を語り、それにもかかわらず客観的に自身を見つめている。なんとも滑稽だ。この相反する感情が二律背反に陥り、間もなく生まれた。

嗜虐的かつ自己陶酔的なわたしという在り方が。

自分を虐めたいと思っているのか、自分とは即ち自分であると、分かっているのか。

絶望に打ちひしがれる自らの姿が美しいと、本気で思っているのか。

全て理解し、本気でそう思っている。ああ、嫌だ。怖いものは見たくないよ。ああ、綺麗だ。人の絶望をこんなにも近くで見ることができるなんて。

アンビヴァレント────それがわたし。わたしは救いようのない厨二病のようだ。いつかこの記事が黒歴史となってわたし自身を苦しめるとしたら? それもいい。だってさっきも言ったから。何も変わらない。変われない。

だから嫌だと言っている。『for elise』はプレイなんてしたくないんだ。

だから、すべきなんだと。やりたいんだと。

最早嵐が静まることなんてないのだと、分かってしまったね。

さようなら。