思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『水葬銀貨のイストリア』感想、他

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前置き

私は、紅葉の言うことを否定することができない。やはり心を滅茶苦茶にかき乱してくれるような物語は、悲劇にしか存在し得ない。この感情はカタルシスとは明らかに別種のものである。故に同時に存在することはできない。勿論それは一つの場面であって、一つの作品に両方が存在することは不可能ではない。だが、少なくとも私の知る限りその両方が最高の状態で存在している作品は見たことがない。言うまでもなくこの作品に見出したのは悲劇である。それも極上の。

私は元来bad endが好きだ。希望を抱いて前に進み、しかし願いは叶わず絶望に打ちひしがれる。先の通り私は悲劇による心の乱れとカタルシスによる心の乱れはまったく別種のものであると思っている。双方を似ているなどとは何を間違えても思うまい。bad endはその名の通り悪い結末のことだ。悪い結末、物語に潜む神の意にそぐわない結末ともいえよう。それは通常の物語では発生し得ないものだ。なぜならその神の意とは必然性とも取れるからだ。必然性を欠いた物語は結果として面白さを失う。物語として意味をなさなくなる。つまり、bad endとはそもそもの存在として悪いものである。気分が悪くなるという言説でその存在を否定する者もいるが、それは私としては正しくない。投げやりだという言説もある。これは正しいと思う。事実そうであるから。神の意にそぐわない、必然性を欠いた、そんな物語がどうして人の心を震わせることができようか。どう足掻いても不可能である。ではなぜそれを良しとしたのか。私は、true endの裏にあるbad endこそが美しいと思うのだ。正しい結末の裏に潜む最悪の結末。それは投げやりのようにも見えるが、最後に正しい結果が待ち受けている以上、そうはなり得ない。壊れてしまったって、狂ってしまったって、全てを投げ出してしまったって、それは物語を彩る香ばしいエッセンスの一部になるのだ。小夜さんがC・Aの強さの真実を明かした時、紅葉が来て英士を見捨てると言った時、彼は否定された。自身が積み上げてきたもののすべてを。それはとっても残酷で、けれども美しかった。

私は飽く迄観客。彼ら役者を冷酷な目で見つめる。しかし冷酷になり切れなかった観客が、こう言うのです。「なんてかわいそうなのでしょう」。でも、手を出すことは決してしません。なぜなら舞台と観客席は、絶対的な壁で仕切られているから。いくら手を伸ばしても届かないことは知っているから。なのに溢れ出る感情は止まりません。「せめて、少しくらいは救いを与えても良いでしょう? さもなくば、彼が不憫でならないのです。どうか、私を救うと思って、彼を救ってあげてくださいな」。そう言う観客の顔は、確かに悲しみに満ちている。しかし、どこかおかしいのです。どこか、喜びのような感情が、混じっているように見えてならないのです。気のせいであればどれほどよかったでしょう。しかしその観客は、途中から笑みを隠そうともせず、笑い始めるのです。でもやはり、そこには悲しみも入り混じっていました。よくわかりません。悲しみに打ち震えながら、喜びに肩を震わせているその姿は、やはり人間だったのです。悲しみ、喜び、恥ずかしげなく感情を露わにし、生を実感する。まったく快感で、実に素晴らしい。

物語は必然性の下、収束することで終わりを迎える。必然性を無視してはならない。なればこそ、bad endは漫画や小説に存在することは難しい。結末が一つしかないから。bad endとは即ち、間違いであるから。そういう意味で、ノベルゲームであるということをよく活かせていたと思う。加えて選択肢もまた選択していることを実感する良いものであった。夕桜を選ぶか、玖々理を選ぶか。実は事前にこのような選択肢があることは知っていた。というかこの選択肢に魅力を感じたことが本作を購入した理由の一つだ。生殺与奪の権を他人に握らせていないところがいいと思いますねはい。trueとbadの分岐選択肢も素晴らしい。この作品のことをよく理解していれば迷わず選べるが、やはり不安になる。狙ったかどうかはわからないが、その迷いも含めてこの作品らしい。

人魚姫について

作中での人魚姫を見る限り、どうやらそれは後天的なものであるらしい。本当にそうだと言うのなら、ある時を境に体が変質するということになる。実際英士は前半部にて何度も涙によって治療されたという描写があり、久末紫子に涙を見せる前までは至って普通の人間であることがわかる。つまり、何らかの条件を達成した瞬間に、何者かによってその体を変質させられるということになる。何度もそれは自己犠牲精神であると語られた。だが、ここでおかしな点が一つ浮かぶ。それは飽く迄精神的な問題でしかないということだ。勿論精神が身体に影響を及ぼす例はある。だが今回のことに関してそういった事例とは別種のものである。何らかの条件を精神領域にて達成したら身体的特徴に変化が生じる、まったくおかしなことだ。このことからアメマドイという地域には人魚の呪い、比喩でもなんでもなく所謂呪術的な意味合いでの呪いが存在しているのだと思われる。アメマドイに伝わる人魚の伝承。かの人魚の呪いが今尚、続いているのだ。抑も大きな変化が生じた体で何の違和感もなく生活できているという時点でもはや自然のものではない。

だがここで問題となるのがその条件は何かという問い。作中では自己犠牲精神を持った人と言われているが、もしそうなら英士はもっと早くに人魚姫となっていた筈である。英士は本作の登場人物の中で最も深刻な被害者で、最も不幸な人物だ。それでもなお、彼は自分以外の誰かを助けようと必死だった。自分のために救っているだけだ、みんなを救うことはできない、何度もそう言っているが、英士のやっていることは紫子に涙を見せたときとそう変わりないことに思えてならない。玖々理は姉の最期を見て涙を流し、夕桜は死にかけの兄を見て涙を流し、紫子は亡き妹を想い涙を流した。そして英士は、やはり死にかけの紫子を想い、涙を流した。対象が死に面した、もしくは既に死んでいる状態ということが最も重要な要素であろうか。ただ、共通の事象を探るよりも有効な手立てとして、実際に人魚姫となったときの英士の心情がある。

受け取るばかりの人生を否定して。

与える側の人生を生きていこう。

一人で孤独に生きる彼女のために───僕は、人魚姫になったんだ。

人魚姫と人間の最も大きな差異はやはり涙の存在である。涙の用途は傷ついた人間に与え、傷を癒すことだ。つまり人魚姫の本質は自己犠牲ではなく与えることにある。人に何かを与えるには前提として自分の存在が必要である。加えて、副次的な要素として人魚姫の寿命は普通の人間とは比べ物にならないほどに長くなる。人魚姫は生きる意思が必要である。他人を救って、そのまま自分も死のうなどとは言語道断である。紫子に涙を流す前の英士には根本的に生きる意思というものが欠けていた。小夜さんに真実を明かして、そのまま殺されてもいいとさえ思っていた。それが良くなかった。生きる意思のない人間を、人魚姫にしたいわけがない。紅葉は人魚姫に生きてほしいと言った。これは初代の人魚姫も同じことを思っていたのだろう。心なき人間に涙を貪り取られ、無念のうちに死んでいった彼女が死を肯定する筈がない。

普通の感想

全体として、シナリオの完成度は非常に高いと感じた。各個別にて少々退屈と感じたが、共通とtrueは文句なしの出来だったため、さほど気にはならない。だが一部CGは擁護できないほどに崩れていたり、誤字が非常に多いなど前作紙の上の魔法使いにて散見された問題点が多くなっている。紙の上の魔法使いにてCGは多少違和感がある程度のものだったが、今作ではかなり違和感があるものが増えている。加えてタイトル画面と立ち絵を比較すると分かるが、同じ顔にかけていない。それはCG然り。可愛いということが救いではあるが、許容はし難い。また誤字に関しては正直製品として問題があるレベルだったと思う。例えば紫子の二人称はお前であるが、表記されていたもののうち約半分程度があなたと表記されていた。このタイプのものが最も多く、他キャラクターでも半分まではいかないものの、多く見られた。その他に、作中私が確認した限り二度、分身を発見した。

個別が退屈とは言ったが、夕桜√については背景の心情等を考えるとなかなかに面白い。だがやはりと言うべきか、肝心のストーリーは他√同様そこまで面白いものではなかった。

その個別√だが、全てに共通して鍵となる人物が祈吏だ。しかしどうもこじつけがましいというか、はっきり言っていらないと思ってしまった。加えてtrue√ではまず出てこない。このことから察するに、起伏のない個別を少しでも山を作ろうと無理矢理作ったキャラ感が否めない。正直個別は起伏もなく英士が平和を享受して短めで終わっても良かったと思う。

 

 

点数:87/100 文章:6/10 味:苦味