思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『神の国の魔法使い』感想

いきなりですが,どうしてこんなにも素晴らしい作品を今まで放置していたんだという気持ちでいっぱいです。続き気になるから完結するまで……は正しかった。実際あそこで止められていたら行き場を失った心が彷徨っていたかもしれない。しかし完結したところで「まぁめんどいしあとでいっか」はダメ!! 目の前に,魂があるから!

 

過去の作品とその先

そんなこんなで想像を絶する作品でした。まず私の好きな要素として,「時を超える想い」,そしてそれに付随する人の肥大化した感情,そういったものがある。そういうものにはすこぶる弱い。それを直球寸分の狂いなく投げてきたのが本作,神の国の魔法使い。しかも一度や二度ではない。本作を語るにあたって,私は何度か考えていることがある。ねこねこソフトの過去作である『Scarlett』と,きゃべつそふとの『さくらの雲*スカアレットの恋』とテーマを地続きにし,その先を目指す物語なのではないかと。これらの作品は,日常と非日常の境界線,そして未来へ託す人々の想いといったものがある。

前者については現代を舞台にして表社会に生きる人間と,裏社会に生きる人間の差異を日常と非日常という表現によって非常に巧く表されていた。それが本作神魔法に対して地続き的にテーマが使われたように感じたのだ。雑にだが,本作について説明をすると,ある日日本へ旅行でやってきた兄妹が偶然見つけた神社で謎の魔法陣を見つける。そしてそれは過去へ通じる道だったのだ,という感じ。この場合において日常とは現代であり,非日常とは過去を指す。しかしながらこれは読み進めていくうちに若干の違和感を覚えざるを得ない。というのも,現代は現代で戦争という火種を抱えており,主人公たちは安寧が欲しい,だからこの過去に留まる,というようなことを口にする。なるほど,現代といえど日々なんらかの危機はあり,そういった意味では同じであるのだと。すると疑問が生じた。私は過去と現代の差異において,日常に存在する危険の量であると考えていたためだ。だからこそ,私はここで考えを改めた。Scarlettの地続き的作品であることを変えるのではない。本作は地続き的でありながら,その本質のみを保ったままそれ以外の殆どを別のものに置き換えたのではないかと。ゆえにこそ日常と非日常というものにおける本質的な要素は「価値観」である。生きる場所が,時代が,社会が違えば,その人の持つ価値観は大きく変化し得る。その,「日常」とやらと比較して。そういう意味で過去の世界は主人公たちにとってまったく違う価値観の世界であり,そこに身を置けば彼ら自身も,変化し得るのだろう。

そして後者,未来へ託す人々の想いについて。『さくレット』においては必ず残すから,私たちが生きた証を,という前提として強い想いの下成り立っていた。しかし本作において過去と現代の行き来は難しいものではなく,何かあるごとに現代へ戻ることがあった。そこで最終的に下された結論は「未来はそう簡単に変わるものではない。特に,人が一生をもってしてもたどり着けない,千年などというあまりに大きな時間の下では」ということだ。これに関しても『さくレット』を思い出すことがあった。つまるところ『さくレット』における過去とは100年前の大正時代であり,本作における辛うじて人間が干渉可能な未来という点で見ればこの100年という歳月はまだ現実的であり,作中で自分たちの痕跡を残すと自信満々に言った彼女らは決して不可能なことを言ったわけではなかった。事実として彼女らの痕跡は現代までしっかりと残り,『さくレット』の主人公である司のもとまでしっかりと届いていた。だが,本作の目指すところは1000年も先のことであり,やはり,到底人の身で到達し得る境地ではなかったのだ。曰く,

「音楽家は消えても……私の中では,今も曲は生きている」

らしい。面白かった。確かに,作者を知らないのに作品を知っている,ということは往々にしてあり得ることであるし,なにより,この世に存在するありとあらゆるものに関して始祖と呼ばれる存在は必ずいる筈だが,我々はその多くを知らずに過ごしている。たとえ個人として,名を残すことができなかったとしても,作品は,道具は,概念は残る。それらが生きた証として後世の人々に賞賛されることがあるのであれば,それはきっとどうしようもなく嬉しくて,月並みな言葉で言えば,すごい達成感なのだろうと,心から思う。結局のところ,100年以上先の未来に名を残すには,それこそ国家規模でないと難しいのだろう。けれど,何か微細な,ちょっとした変化であれば,きっとなせるはずだ。なぜなら,音楽家の名は残らなくとも,きっと,曲は残るから。

このように,すでに私の心に大きな杭を打ち込んだ2作品から似たようなテーマを感じ,その時点で大きな期待はしていた。ただ,『Scarlett』という作品は先述の通りねこねこソフトの過去作であり,これがこのような形で関連性を感じるのであれば,それ以外の過去作も同様なのではないか,という不安は常に付きまとう。そのためいつかまた,過去作をすべてプレイした状態で本作について考えたいと思う。

 

魔法使いという虚構

本作ではタイトルにもあるように,魔法使いという言葉は非常に大きな意味を持っている。つまるところ過去の人々には現代で使われている常識や道具はさながら魔法のようであり,それを用いて村を良くしてくれるのであればやはり,主人公らのことを「神の国の魔法使い」と呼んで差し支えないのだろう。しかし,この魔法使いという言葉にも種類があった。その点,主人公は,自分とその妹のことを「ただの魔法使い」と呼び,過去で出会い,途中から共に過ごす家族となったサツキのことを「本物の魔法使い」足る存在,といった。それは「現代知識/道具」を「魔法」であると信じているからであり,それらを単なる現代知識と道具を魔法であると考えてしまうネイティヴの現代人には決して到達できない存在であった。ある意味サツキには本物の魔法使いたる資格の魔法がかかっていて,それを解除するのは簡単,これらは魔法ではない,単なる知識と道具であると理解すればいい。その瞬間から本物足り得たサツキもただの魔法使いであり,もう,その魔力は残っていなかった。それはつまり,現代人たるもっとも重要な価値観をサツキに教えるということであり,それは歴史,たとえどんな知識や道具があろうとそれは「すごい知識/道具をお持ちなのですね」というだけの話であり,それだけで現代人足り得ない。その存在をその存在たらしめるのは歴史だけなのだ。

 

全体として

非常に好みの作品であったことは確かだ。先に言った通り,私自身の好みを真っすぐ貫き,またテーマ的に見てもなにかすごいことを言ったわけではない,ただそっと,私の心に触れられたような,そんな感覚があった。優しく,ゆえにこそ,この作品は言葉に内在して,私を包み込んでくれるのだと思う。敢えて言えば,本作を読み終えたあとに言葉という存在が無粋で仕方がなかった。このやさしさに,言葉など必要なのであろうか,そう思えてならないのだ。しかしそれでも,私は本ブログを書くことで,また一つ私が作品を読んだという痕跡にしたかった。

最近はノヴェルゲームという媒体から少し離れていたため,若干始めるのが億劫であったが,やはりノヴェルゲームという媒体については,こと展開において他の追随を許さない,だからこそこの深淵にオタクが集まるのだと再確認した。この深淵の溜り場を,どうかこれからも継続させてほしいと切に願うのだ。

最後に,改めて素晴らしい作品でした。本作のテーマについてはすでにふれたように,また展開に関しても完成度は高く,加えて私好みのものであったため,若干の贔屓目で見てしまうかもしれないことを許してほしい。

 

 

点数:100/100 文章:7/10 味:苦味,塩味,若干の甘味