思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

補助機材に命を狙われている

 ”物語は人生の補助機材だからね、一度つけると取り外すことは難しい”

物語に生き、物語に死ぬような人生はとても良いものだ。素晴らしい。わたしという存在に実に即していると思う。

一度その環境に順応してしまえばそれなしでは生きていくことは難しい。逆に取り外すことになれば、どんなに自分自身が望んだことであったとしても大いなる苦痛を伴うに違いない。なればこそ共存を望みましょう。されども物語、このお方は非常に狂暴、そう思えば温厚、狂人、それはトリックスターのように立場が不明確。恰も共存を拒否するかと思わせるほどに理解が遠い。

しかし仲間、仲間である。つまるところ我々は運命共同体であり、貴殿が死なばわたしも死のう。然れども貴殿に於いてはその限りではないことは明白。なるほど、理解した。否、その深淵なる存在性のただ一端、それだけを理解し得た。

君は、わたしの存在を望んでなどいなかったのだ。物語が生きるには人の存在が不可欠だ。何故なら物語は人に読まれ、伝わり、更なる人に読まれてその存在を永遠に近づける。「人」がいなければ生きることは叶わない。そういう存在だ。

そこで問う、わたしは「人」か? 答えは違う。わたしは人であっても「人」ではないのだ。塵も積もれば山となる────とはよく言ったものだが、結局のところ積もる見込みがあるから意味があるのであって、わたしという人間単体では何の意味もない。わたしが二人になることはあり得ないからだ。仮にわたしとまったく同じ存在がいたとしてもそれはわたしではなく、同じ存在が二人いるだけ。

わたしという存在はあまりに些末であって、それは頂上から見た民衆のようであろう。

「人」が必要とは言うものの、わたしが必要という意味では断じてない。生意気なことを考えちゃいけない。わたしたちは飽く迄物語に縋るだけ、そこに相互性はない。

だから背中を許してもいけない。背後からそっと一突き、匕首は既にその首に突き付けられている。どうしてか物語はわたしの命を狙ってくる。物語は自分の生にそっと寄り添う、優しい存在なんかじゃまったくなくて、寧ろ悪意の塊なんだ。どんなに優しい物語であっても、君の心に何らかの悪意を残すんだ。そしてその悪意は物語に対する依存性以外の何物でもなくて、その果つる想いは破滅だった。