思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』感想,他

 

はじめに

一体どれだけ待ったのだろう,この作品を語るうえで避けることのできない話題.ティザーサイトが公開されたのがたしか17年? そこからじゃあそろそろ,来年こそは,そんな気持ちを何度も繰り返してきた.......とは言うものの,実際問題私が初めてサクラノ詩をプレイしたのが発売後少し経ってから.そこから二回目のプレイはおろかこの作品について話すこともほとんどしなかった.というのも,最初の頃はなんだかもったいなくてと思い,この気持ちが洗浄されるまで一旦この作品は置いておこう,そして忘れた頃に再び向き合いたいと,どう思っていたからだ,ただティザーサイトが公開されてからは「じゃあサクラノ刻発売前にやるかなー」という気持ちに変わった.そんなこんなで気付けば2023年.おう,サクラノ詩ってどんな話だったっけ.てなわけで刻に対する情熱はすこーし,本当に少し,失われていました.その,失われた刻を求めて──私は詩の世界に再び足を踏み入れた────.

いやぁ,やっぱすごいよこの作品.前回受け取ったもの,今回受け取ったもの,やはりというかなんというか,この7,8年もの間に私自身の感性はだいぶ変わっている.それが最も顕著に顕れているのは2020年にさくレットをプレイしたときだろう.それ以前と以後で明確に違いがあったというわけではない.ただその作品がきっかけになった.さくレットという作品を通じて,私はこんなにも虚構に入れ込んでいるのか,こんなにも虚構が私に与える影響はすさまじいものなのかと.

正直なところサクラノ詩初回プレイ時の私は決して完成豊かとは言い難い.故にこそ冷静に虚構を見つめられたと言えばそれまで.だからこそ,当時私が感じた素晴らしさというのは感心した,という類の感情に過ぎない.傍から見れば感情がこもっているかも判断しがたい称賛.対して現在,私は放心状態にあった.もっともわかりやすい例として,六相図を完成させたときの直哉と健一郎との会話にある.しおらしく挑発的な直哉と,それに対する健一郎.件の贋作を健一郎本人に見せるということは,そういうことでしかなく,これは贋作を本人に見せたのではなく相手が一人というだけのお披露目だった.その関係が私にとって,否,ここまで読み進めた者として,どうして心動かさずにいられようか.

「稀代のペテン師にはお似合いの最後だな......」

「これは,お前が俺に捧げた墓碑銘だ.だから俺は,ここに自分の名を刻む」

「これは俺の作品じゃない」

「俺の死のために,草薙直哉が描いてくれた作品だ」

本当に,ただ嬉しかったという感情のほかにない.父草薙健一郎の人生の終着点にはこの絵があり,それを認められた.これを最上の喜びと言わずなんと言おうか.

と,今でこそ絶賛しまくってるこのシーンですが,先の自分,初回プレイ時は信じられないことにすげぇなぁと,真顔で称賛してただけなんですよね.やっぱり年齢って重要ですよ.その時々によって作品から受ける印象なんてものは180度変わり得る.だからこそ,昔好きだった作品や嫌いだった作品,はたまた何も感じなかった作品を今改めて摂取することのなんと面白いことか.そんなこんなで刻プレイ直前のコンディションは最高,この上ない開演でした.

 

Ⅰ章について

Ⅰ章からえげつないもの出してきたなぁって思いましたね,まず.静流さんの過去回らしいからまぁ前作で特に掘り下げなかったしな程度の認識で挑んだらまさかの不意打ちパンチ! はじめにでも話したが,この作品において贋作という言葉は一際重くのしかかる.贋作者が何を思って作ったのか,本当にそれは贋作と呼ぶにふさわしいのか.無論,贋作と言われる以上本人がそうであることを意図していることが多いのだろう.実際詩でも刻でもそういう扱われ方をした.

一体真の贋作とはなにか.それは一般的に考えられるような元の作品を忠実に再現したものだろうと思う.だからその作品が持つ性質が大きな主張をする必要はないし,否,元の作品を超えた,もしくは下回った主張をする必要はない.なぜならそうなった時点で単にモチーフの影響を色濃く受けたオリジナルでしかないからだ.

草薙直哉の六相図をフリッドマンは挑発的だと評した.父健一郎は煙を纏わずただ認めた.ただの贋作ではない.たとえ贋作の煙が漂っていても,心は澄んだ青空だ.認められた,その一点だけが直哉の心を,そしてそれまでの軌跡を見てきた読者である私も貫かれた.

故に輝く.静流さんと健一郎との出会いはまさにそういうものだったのだ.しかし当然,まったく同じというわけでもなし.口ではこう言うものの,直哉のときは皆が挑発的な態度であると言った.対して静流さんは終始罪悪感に満ちた態度で,とてもじゃないが作品を誇るという空気を醸せはしなかった.改めて得た気付き,それは誇るべき作品であるという自負.贋作だろうとそうでなかろうと関係なくこれは草薙健一郎が辿り着けなかった一つの到達点であると.

結局のところ,自分が自信を持って作り出した作品はなんであろうと素晴らしく,それを認められることは至上の喜びとなる.たとえ作品を取り巻く性質が濁っていても,真実は結果が教えてくれる.

言ってしまえば贋作を作り,そこに宿った魂を見つけ,認められた.それだけのこと.しかし直哉の件に関しては今までの下地があったから,当然響いた.刻をプレイするにあたって直前に詩をやっておいて本当によかったと思う.この下地が存分に生かされ,そのとき本章は最大限の力を得たのだと思う.

......と,ここでⅠ章については終わらせようと思ったのですが,一つ,話忘れていたことがあるのでそれも.

雪景鵲図花瓶を受け取ったときについて.

「世界中の人間が,この雪景鵲図花瓶を偽物だと言ったとしても,それがどんな権威だとしても私は譲らないわ!」

「だって......あれは本物なのだもの.私にとっては,どんなものより本物なのだもの......」

ああなるほど,これが中村麗華かと.中村麗華については前作の真琴ルートにて立ち絵がない状態で出てきたので彼女のたちを見るまでわがままな中年のおばさんを想像していた.実際中村麗華はわがままで,立ち絵こそ若々しく見えるがそんな若くもないだろう.ただ一つ見誤っていただけだった.それこそ彼女の眼,その本質に.嫌いな人間に対しての当たりは強いものの,そうでなければ芯の通った言葉を用い,また自身の限界を理解して努力を惜しまない性格だった.つまるところ,彼女は決して愚かではない.

その麗華が,ここまで強く,偽物であると知らされてなお本物であると主張することの意味は受け入れざるを得なかった.感動したとか放心状態になったとか,そういったわかりやすい反応ではなく,ゆっくりと受け入れ,ただ実感する.その感情がある意味で何よりも尊く感じられたとすら思う.

 

Ⅱ章について

安心してみていられる数少ないというかここしかない章.しかしその分サブキャラクターたちの主張がまぁ強い(恋愛ゲーム的な意味で).これ本当に攻略キャラクターいないってまじ......? そうなんですよ,事前に言われていたのでわかっていたことではあるのだが,いややはり,こうして結構なアプローチをかけられると「まじか,これみんなルートないのか」という気持ちになってしまったのは許してくれ.まぁなんというか,各キャラクターを見つめる章として非常に完成度が高かったと思います.

特に絶対オナニーを見たい女子高生たちは流石に笑ってしまった.鈴菜......そんなおもしれー女だったとはね.いや,この件に関してはみんな面白いんですよ.だってみんな先生のオナニー見たいって言うんだから.うーん,これは響で全ルートオナニー見せるやつか? これ,相手がいわゆるメスガキ的な態度とってなくても教師と生徒というどう足掻いても上下関係が捨てられない性質上精神的メスガキ感ありますよね.忘れてください.いやね,まず前提として私はなんでもかんでもメスガキって言う今の風潮が大嫌いなんです.なんならメスガキというものも正直好きではない.というのを踏まえて,これを言った意図を考えてください.はい,そうです.生徒にオナニー見せるのって,つらい,ですよね.だから響でこういう感じになったらつらいなぁって,思います.

 

Ⅲ章について

やはり一番話したいところは恩田寧と本間心鈴の絵画対決.これが本当にすごい.結論から話せば,単なる素人目なのかもしれないが,本間心鈴の描いた絵画を見て私は口を開けてしまった.絵画を専攻していたわけでも,美術に関して殊更造詣が深いわけでもなし.ただ,彼の絵画は一目見た瞬間に引き付けられた.文脈によるバイアスがかかってたのかもしれない.でも,それでいい.大事なのはそのとき私がすごいって思ったこと.それをサクラノ刻から学んだよ────.

まぁなに,才能や技術が透けて見える絵.恩田寧の絵はまさしくその権化とも言えよう出来栄えだった.実際彼女は恩田の血筋であることを強く主張していたし,果ては心鈴の血筋をひどく貶した.心意気からして彼女はあるかもわからない才能に溺れていたのだろう.恩田寧に,仮に才能があったとして,また三色型色覚と四色型色覚の切り替え.これらを持つ恩田寧はたしかに技術のある才人なのだろう.しかしそこから見えるのは技術と才能でしかない.まるで血筋という名の才能が武器であるかのように,まるで三色型色覚と四色型色覚の切り替えが最強の武器であるかのように,そんな振る舞いが恩田寧の才能を顕にしてしまった.なるほどたしかに,自分の持ち物に頼りっきりで,それに隠れたような振る舞いは決して勇気とは言えない.だからこそ,後の三週間は彼女にとって一生というスパンで見てもきっと,かけがえのない宝物の日々になるのだろう.こうして私は画家が生まれる瞬間に立ち会えた,そのことがこの章を読んで得た宝物の一つとなった.

それでですよ.この流れで読み進める心鈴ルートのなんと素晴らしいことか.真琴ルート先に読むか迷ってたのだが,全然,こっち最初で良かったと心から思う.

心鈴ルートに関しては二つ.一つは本間礼次郎という男の本質に相見えることができたということ.礼次郎はずっと,鳥谷紗希によって得体のしれない男,という評が付いて回ったため,本当にどういう対応をしてくるのかずっと悩む羽目になりそうだと思っていたのだが,心鈴ルートの最後にて,健一郎と礼次郎の対話を見てその気持ちは霧散した.彼は本質を見つめ,それを貫く男であると.とはいえここではっきりとしたのはこれから先の展開で,芸術において無粋な真似だけは絶対にしないということだけだが.六相図の件然り,爆弾はまだ全然処理できていなかったのでね.

二つ目は心鈴ルート全体としての完成度の高さ.心鈴がね,まぁ可愛いんだ.告白のシーンは本当に素晴らしかった.ここで直哉,というより草薙の生涯ひとりの女しか愛さないが効いてくるんですよ(あたしだけですか?).恋愛ゲームとして,至上の完成度.ぐるぐる目,愛おしい.影のCG,ロマンティック.やっぱ心鈴なんだよな,このキャラクターがサクラノ刻で一番かわいいよ.

 

Ⅳ章について

そんでⅢ章からのこれですよ.身近な人物の死という工程を挟んでいる以上,このルートはある意味でもっとも力が強かった.そもそもⅢ章の終わりで藍が章一に拘束されてて,そのままⅣ章に入るのかなと思ったらこれ.正直最初の方読んでるときは気が気ではなかった.なにせ六相図の秘密がバレて,怒り心頭の章一が家にいるんだから.前作から引き継いで,サクラノ詩と刻,全体を通しての見せ場と言ってもよい.それがついに,と思ったら圭の過去編が始まったと.とはいえそんなことを考える余裕なんて結構早い段階で消えたが.圭の生い立ち,草薙健一郎との出会い,草薙直哉との出会い,絵以外のすべてを捨てるに至った出来事,心鈴との出会い,夏目圭という人物を構成するすべてが走馬灯のように,事実学生でその幕は閉じてしまったとはいえ一つの章で語り切るにはまさしく走馬灯のようなことであっただろう.

詩の時点で,圭の絵画に対する想い,草薙直哉という人間個人に対する想い,それらがいかに大きなものであるかは想像に難くなかったが,彼の内面から見つめ,彼を変えるに至った各出来事を見ているとそれを遥かに超える精神の浄化を得たことは必然だった.

もともと,圭は天才と呼ばれていたし,あの草薙健一郎に認められて宮崎絵画学校に通うことになったのだから多少の驕りは許されてしかるべきだろう.しかし,その天才性が更なる天才を前にしたとき果たして自分自身が許せるだろうか.否,許せなかったからこそ圭は向日葵を描くことができた.向日葵の絵を描くに至るまで,圭が並々ならぬ努力を重ねていたことは知っていた.それが具現化されたとき,圭という人間の想いを,重みを,初めて実感することとなった.だから圭が死に際に放った言葉,

直哉──

たぶん,俺はお前に追いついたよ.

今度はお前が走り出す番だ.

この言葉を私という器だけで受け止めきれる自信はない.

ただ......そう,夏目圭は誰かの背を追うことを知っていた.決して直哉を同格の存在とみなさず,自身が辿り着くべき目標と捉えていた.このことを知っている天才から教えを請うた宮崎みすゞは,きっと良い画家となるのだと思える.圭は,圭だけは,絶対にまがい物ではない天才だから.その精神を知る彼女の絵はきっと何よりも魂を震わせる.

 

Ⅴ章について

ということで一番の問題児(後述).

まぁクライマックスですよね.本当に,すべてがここに重なる.だからたとえ納得のいかないことがあったとしても受け入れられないという類のものではなかったし,それは私個人という範疇で収めることができた.

これは作中何度も示唆されていたことだが,御桜稟は草薙直哉に再び筆をとらせるために世界的芸術家となった.そしてアリア・ホー・インクもまた,同様の思いで筆をとった.恩田放哉がⅢ章にて今の芸術界の化け物たちは一人の亡霊が生み出していると言われていた.つまりこれは,そうやはり,草薙直哉のための物語だった.そのけりをつけるために交差したすべての想いが,どうして読者の心を打たずにいられるだろうか.

だから,いろいろあれど,直哉が再び筆をとり,ライヴペイントの一回戦,宮崎みすゞとの勝負での筆を持ったCGは何度見てもそれだけで感動してしまう.ああ,これが草薙直哉の眼なんだ.彼があの眼でキャンバスを見つめ,筆をとる姿というのはそれだけで美しく,見惚れてしまうものなのだと.

なのに,まだ先があったなんて! ......というのはまぁ,OPで右手に筆持ってるCGあるので知ってはいました.知っては.だって,OPでそれ見ただけであらゆる想いが溢れ出してきて決壊しそうだったのに,この文脈をもってして世界を描く.これが,これこそが,かつて日本画壇の老人たちを戦かせた櫻の芸術家.草薙直哉という男があまりにもカッコよすぎる.それでいて「奇跡」の力によって一時的にでも草薙直哉と張り合える力を得た長山香奈,この演出は流石に粋だと思いましたね.

......でも,だからこそその後の展開は受け入れたくなかった.というのも,シナリオとしてはこれを受け入れる下地は十分にあったから,納得せざるを得なかった.

まずこれについて単純に私の理解をまとめると,伯奇の力を使って直哉は稟との勝負に使う絵を描いた.そして,御桜稟は,ずっとその力を使い続けて絵を描いていた.アリア・ホー・インクは,その力があったからこそ,自身の天才性に目覚めることができた.これって,なんだかすごく気持ち悪いと感じる.長山香奈はよかった.なぜなら彼女は終始凡人として描写されていたから.凡人だからこそ,一時の軌跡は輝く.しかし彼,彼女らは違う.曲がりなりにも「天才」として描写されていた.

私は,天才の先天性を信じてやまない.天才という存在に神が宿る.それを否定するつもりもない.天才とは読んで字の如く天の才,これは天から与えられた人ならざる才能であり,凡人の眼で見てしまえば次元が違うと,そう絶望してもなんらおかしくはない.それが天才という存在の業であると私は認識している.もちろん,先天的な天才性というものは遥かに高い純度で持ってはいたのだろう.実際直哉は最後以外に伯奇の力を使ったような描写はないし,里奈もなんだかんだですごいと言われている描写はあった.また,御桜稟も幼少期,流石にあの年齢で文字通り血を絵画に変えるような真似はしていなかっただろう.だから,すべてがすべて,否定されたとは思っていない.でも,やはり最後直哉が描いた絵が彼自身の才能によって描かれたかは疑問が残るし,里奈と稟は言わずもがな.そして私は書いているうちに才能という言葉を妙に強調してしまっていた.これでは人が絵を描いたのではなく,まるで外的な才能という何かによって描かれたのだとすら感じてしまう.そう思ってしまうと,どこか圭という存在が否定されてしまった気さえする.それが何よりも悲しい.

とはいえだ,先述の通りシナリオ的にこれを受け入れる下地は十分にあった.だからこそ,直哉が最後の人筆をいれて櫻ノ詩が流れ始めたとき,私は思わず涙を流してしまったのだろう.正直,ここまでくるとこの展開が嫌だとかそういったものは抜きにして,ただこの物語のすべてが美しく見えた.

本当に,直哉は世界の限界を超える絵画を描いたのだと思えて,圭がやっとの思いで追いついた草薙直哉は,またしても先頭を走りだしたのだ......と.

 

Ⅵ章について

本当に,感慨深い.かつて卒業とともに皆が離れて行ってしまった弓張,けれどこうしてすべてが終わればみんながいて,それが本当に嬉しい.きっと直哉の戻ってくる場所は常に守られているし,きっとみんながいるのだと.かつて詩のⅥ章ではフリッドマンとともに戻るべき故郷のないことの悲しさを語ったこともあったが,それとは対照的に暖かな戻るべき場所として描かれていた.決して旅先で死ぬことはなく,故郷に骨を埋めることができる幸せ者だ.

 

おわりに

いや,本当にめちゃくちゃ良かったです.プレイ前,というより詩の再プレイ前,正直あるのは後でいいかとか思ってた自分は本当にバカ.時間置きすぎて熱も冷めてたけど,いざやってみれば本当に素晴らしい作品でした.前作からの続きであるということもありますが,作品としての力が並みではないし,何度精神の浄化を味わったかは覚えていない.ただ見せ場と思しきポイントを読むたびに浄化されて口を開けていたのは覚えている.

下の点数から,永久に私の心に刻まれる作品であることは覆しようがない.これから先,もしかするとまたこの作品に触れて同じことを思ったりもするのだろう.そんな日がまた来るかもしれない,それを想像するだけで私の心は躍るように軽やかになる.

またこのブログを書いているときも,内容を思い出すために何度かスクショを見返して,そのたびにプレイ時に抱いた感情を多少劣化はしているものの,そう変わらない大きさで感じることができた.単純に物語から受ける力,そういった視点で見た場合サクラノ詩,刻はこれ以上ないとすら思える.なんだか最後に上げすぎてキモいと思ってしまうが,まぁ本当に,それほど強い印象を抱いた作品でした.

 

 

 

点数:96/100 文章:8/10 味:旨味,苦味,酸味,塩味少々

『ホグワーツ・レガシー』についてのお話

とりあえず先日ホグワーツレガシー(ホグワーツって打つのめちゃくちゃやりづらくて嫌い)をクリアして,いくつか言いたいことがあったので書きましたってだけの記事です.が,前提としてこのゲームによって受け取ることのできる体験は本当に素晴らしいものだったということを念頭においてほしい.それでは

 

本作,人間周りについてだいぶ気持ち悪い要素が多い.まず翻訳が英語の教科書にあるような訳というか,非常に優秀な英語教師が訳したような,そんな感じの印象を受ける.しかし前者ほどの堅さはなく,イメージとしては後者がより適切ではあると思う.というのも,ただ,意味もなくその例を出したわけではなく,実際に話しているのを見ると気持ち的には英語の教科書を読んでいるような気持ちになる.

とはいうものの,嫌なら英語音声にすればいいとか,そもそも下手ではないのだからいいだろうと言われるような気もする.いやわからんけど.それについてはすこーし言い訳をさせてほしいんですよ.本作,ゲーム内のオプションから言語設定を変更することができないのです.いやね,私も困惑しましたがまぁしゃあないかと割り切って最後までプレイしたんですよ.でも魔礼青に考えて言語設定変更できないわけなくない? と思い調べてみたらホーム画面からできるそうで.うーん,これは私のミスです.本当に申し訳ありませんでした.てなわけで全編日本語でプレイせざるを得ませんでしたという話.......こういうのって今までプレイしたゲームでもあったのかなぁ.というのが言い訳.

また,なまじ上手だからこそ気持ち悪いという点.別に下手なら下手でいいんですよ.下手なこと自体は別に悪い印象はあるとしても先刻の不快感はないので.このなまじ上手という点が重要.あくまで翻訳を専門にしている人ではなく,英語に関して造詣が深いが綺麗な訳文を仕上げたときの文章,といった感じ.これが実際の会話に用いられると,まぁ気持ち悪い.ただここで一つ,問題が浮上して,私は海外産のゲーム及びそれらしい雰囲気のゲームは英語もしくはわかる範囲内で他言語を使用するのでこのような問題点と少しばかり縁遠い.ホグワーツ・レガシーより前,最後に日本語音声でプレイした洋ゲーと言えばGhost of Tsushimaだった.これは少しばかり完成度か高すぎるので本件には不向き.......なんですよ泣 うーん,結局どうなんすかね.

次に主人公の話し方について.なんか知らんけどたまに語気強くするんですよねこの子.もっとも顕著に顕れているのがランロクの信奉者(モブ)と戦った後のコメント.本作,ランロクというまぁ悪の親玉的な存在がいて,それを信奉するゴブリンと敵対するというまぁまぁわかりやすい構図があって(ほかにもゴブリンではない闇の魔法使いと戦ったりするけど一旦置いといて),マップに点在する彼らの拠点をつぶしていくという言ってしまえばオープンワールドらしいシステムがあるのだが,そこでゴブリンを倒したときに一定確率で発する言葉がさっきの.「最後までランロクを信じたままだったね!!」とか,「ランロクのせいだからね!!」とか,めっっちゃくちゃ語気強くして言ってます.皆殺しにしたあとに.正直ゴブリンたちが行ったことに鑑みてもだいぶ怖いです.15,6の青年が,ここまで強く自分たちの正当性を強く主張しようとするその将来がとても怖いです.

そうなんですよ,このゲーム,自陣営についての正当性の主張が妙に強いんですよ.今言ったことを筆頭に,「人間」の正当性に関しては言わずもがな,このゲーム一気持ち悪い点が生き物の捕獲について.これがやばい.なんとですねぇ,動物を捕獲することをまんま捕獲とは言いません.じゃあなんて言うかって? そりゃもう「救出」ですよ.うーんこの.

生き物は密猟者に狙われてかわいそうだからうちらが用意した庭で生活させてあげよう!←わかる

つまり外にいることはかわいそうなことなんだ.だからぼくたちが「救出」してあげないとね!←キモすぎ!!!

人間中心主義もここまで前面に出されると気持ち悪くも恐ろしくもある.

次に顔について.なんか知らんけど顔全体にそばかすかシミか判断のつかないものがある生徒がめちゃくちゃ多い.悪い意味で非常に白人的な肌のキャラクター造形だなぁと.

先の価値観然り,肌然り,ポリコレという言葉は一旦置いとくとしてもなんだかいつかの列強的価値観が作品全体に蔓延してるような作品.うーん,いつも通りかもしれない!www

 

というわけでめちゃくちゃ気持ち悪い作品です.

でもゲームとしては面白いです.面白くないわけがない.あのホグワーツを自分の意志で歩くことができるのだから.箒で空を飛ぶことができるのだから.魔法生物に乗って空を飛ぶことができるのだから.子供のころから夢見ていた,あの魔法を実際に使うことができるのだから.それらは実際に高い完成度でユーザーに提供されているので本当に心から感動した.

また戦闘についても普通に良い.魔法を使うからと言ってアクション性が低いわけではなく,むしろ高い方だと思っていい.ただ魔法という性質上相手は基本的に遠距離から攻撃してくる.そしてこちらには回避と防御の二択で対処することができる.これが地味に混乱した.当然だが防御不可能な攻撃があって,それは回避しなくてはならない.そしてそれはキャラクターの頭上に表示される攻撃が来るという合図のアイコンを見て判断しなければならない.というのも,攻撃は遠距離にいる相手を確認しつつ,防御に関しては自分の頭上を見なければならず,そのうえで防御不可か否かを判断しなければならないので目がとても忙しい.ただこれは別にマイナス要素というわけではなく,単に難易度上昇のスパイスでしかない.先頭に関しては明確に問題が一つある.ロックオンがカスなのである.操作はスティック押し込みでそのスティックを敵の方向に倒せば対象が切り替わる.なんてことはないよくあるロックオン操作.......なのにやりづらい.特に乱戦時,思った通りにロックオンができずに対処を間違えてダメージを食らうなんてことはよくあった.

それと本作の映像はとても素晴らしい.これだけで買った価値はあると言える.のだが,フォトモードがなければなにかしらのエモートもない.当然椅子に座ったり,ベッドに寝たり,オブジェクトに合わせた動きは一切ない.写真に関しては最悪HUD非表示にすればいいのだが,それでも棒立ちはなかなかシュール.

 

といった具合です.最初にも言いましたが,とても良いゲームです.それだけは心から感じています.

『傾国令嬢』のお話(二回目

 

 

再読にあたって

はじめて読んだのが去年の12月あたり,2,3か月ほど前の話.ブログを読み返せば書かれているような気もするが,今になってもこの作品をもっと早くに読んでいれば......と後悔することがよくある.それだけ,この作品が私に与えた影響は大きなものだった.前回,ブログにて最終的な点数を91点とした.実は今回再読を決めるにあたって,この点数に納得がいかなかったということが大きい.もともと,あまりにも好きすぎるので,他作品よりも良く温めてから読みたいと思っていた.それこそ,2,3か月では短い.しかしまたこの感情を味わいたい(再読することで初見時とほぼ変わらぬ感情を抱けるであろうことは確信していた)と思い,とりあえず前回のブログを少し読んだ.するとどうだろう,私の魂の作品とも呼ぶべき作品であるのに,91点とは,少し低いのではないか? と.実際あの日のことを思い出すだけでももっと素晴らしい経験のしたはずなのだ.とはいうものの,一度つけた点数はそう易々と変更していいものでもない.しかし自分でつけた点数に納得ができない.ということで,今回の再読に至りました.

まず,結論から言えば点数は上げることにしました.とりあえず,95点,と.再読前は98点くらいつけてもいいと考えていたのだが,読み進めるうちに感情の幕に邪魔されて意識したくはなかった作品の粗,そして単純な詰めの甘さ,そういった点を考慮すれば流石にユースティアよりも2点高いのはやりすぎか......と.そうは言うもののやはり,感情という一点に関して言えば悪い点を無視してでも頂点に立たせたいとすら思える.もろもろを考慮した結果,この点数に落ち着いたという話.

 

それで

ただこの作品が好き.気味悪く笑うマリアも,なんでもできちゃうマリアも,性愛に溺れるマリアも,残虐な瞳のマリアも,鈍感なマリアも,ぜーんぶ,好き.

だから私は,この作品に溺れることしかできない.二度目の通読をつい先ほど終えたばかりだというのにすでにあの世界が恋しい.これは例えばさくレットのときに感じた寂しさ入り混じった読後の感慨というようなものとは違う.もっと,無意味であり直情的.心に絡まるように惹かれてやまない.

私の抱くさくレットへの思いはある種当然の帰結として挙げることのできる例だと言える.あの作品を否定してでも,愛しい人との触れ合いを,そう願っては決して超えることのできない壁を見つめて沈む.しかし傾国令嬢への思いはそうではない.そこにまだいたいという気持ちにまったくの意味がなく,この感情に物語的帰結要素が皆無である.

私は今から言うような区分,というか区分というもの自体相当に一般化しているものでもなければあまり使いたくないので飽く迄そういう感じ方をした,という程度の認識をしてほしいのだが,私という存在は本作において一歩隔てた場所にいたと思う.冷静に,感情的になっていたのだと思う.マリアはidealだった.またそこに付随する展開も同様,どちらも私にとってあまりにも高尚な存在となり果てた.たやすく触れることすら憚られる,頂に.だからこそ二回目の通読を始める直前に98点ほどの価値があると判断した.最初は冷静ではなかった.別に気付かなかったわけではない.この作品に存在するいくつかの粗に.しかしそれを認識することができなかった.なぜならその茶々が余計なものに感じてならなかったから.一心,この私の心へ一切の不和を感じない調和をもたらした作品に集中したかった.

ただ,ここで一つ注意してほしいのは,私が度々使用する「虚構の頂点」という言葉,それに関して本作は該当しないということだ.この言葉は竜姫ぐーたらいふ(2),Forest,そして穢翼のユースティアの三作にのみ,冠する資格がある.というのも,先に言及した「粗」,これは虚構の頂点を冠するにあたって端的にいうと邪魔である.無論傾国令嬢を評価するにあたって虚構として客観的に見ても素晴らしい出来であろうと思ったから,そして自分自身この上ない運命を感じたから今こうして短期間であるにもかかわらず二回目の記事を書いているわけだが,やはりそこには感情に依るものが大きい.私はこの言葉を使う際,可能な限り理性的でありたい.そして,粗が一定以下,もしくは認識するに値しない程度のものであることを踏まえて「隙のない作品」であることを求める.これは,ある種私が運命を感じ得るような作品ではそうそう起こり得ない.なぜならアメイジング・グレイス,冥契のルペルカリア,傾国令嬢等,何かしらの不満要素を孕んでいる.偶然か必然か,現時点では判断がついていないが,少なくとも現状好きが肥大化した作品は隙が生まれやすい.

私は酔い痴れた.この耽美なる世界とマリアの甘言に.蕩けそうなほど甘くて,けれど触れることのできない切なさで,わたしは狂ってしまいそう.大好きなマリアを求めて,でも届かなくて,だってこれは空想的虚構だったから.ファンタジーなんだよ.

狂った美とそれに伴う感情は虚構にのみ許された特権なのかもしれない,とは最近私が思ったことの一つだが,時を経るごとに実感を伴って正しさを信じられる.虚構にのみ許された特権,それこそが「ファンタジー」なのだ.そういう意味で,本作はファンタジーを絞りつくした正真正銘の空想的虚構なのだろう.

私は昔からファンタジーものが好きだったな.だから今も根底にある運命の動線はここに繋がっているのだ.

『少女の望まぬ英雄譚』についてのお話

少女の望まぬ英雄譚 ※本編完結 (syosetu.com)

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天才とは,一体なんだろうか.本作においては主人公クリシェ・クリシュタンドが天才として,およびその頂点として描かれていた.歪な人間,異常者,狂ってる(ここ適当).彼女を示す言葉は数あれど,どれも普通ではないということを指し示す言葉であった.

天才と呼ばれる人間は,その多くが何か異常性を秘めている.こういった言説はこれまで虚構を摂取するにあたって何度も目にしたきたが,本作におけるクリシェはその極致とも言える存在だろう.人を殺しても何も感じず,ただ自らの追い求めるは一点の曇りなき子供.無垢を宿した理性の権化だった.無垢とは,少なくとも感情ではなくクリシェの持つ既に完成された究極の理性,その付随要素でしかない.

前回の記事,傾国令嬢の感想文にても話題に挙げたことだが,「世界を理解する」ということはまさしくこのようなことなのだと思う.クリシェ,そしてクレシェンタは生まれ出でたその瞬間から事実として世界を理解していたし,ヒトを認識していた.その理解をもって幼きままに自我を手にしてしまった彼女らは,やはり子供であった.

幼きままに手にした自我は早熟と言うにも早すぎる.その自我をもってして理性とともに相互的に補強しあったクリシェの残酷さに際限はないのだ.無垢であるとはつまり,人というものの心に触れた回数が少ないということであり,それは理性的な動物であり,だからこそただ直情的に冷静なクリシェが誕生したのだろう.

大人として,このようなクリシェに向き合ってくれた人がたくさんいたことは,クリシェにとって人生最大の幸福だったのかもしれない.ベリーと出会えたことを筆頭に,ただクリシェは幼かったのだと理解し,ある者は妹として,ある者は従者として,またある者は孫のように,クリシェを愛した.そうした環境で育ったクリシェはこれでもかというほどの愛を受けて成長した.皆はきっと,いつか心優しきヒトとなれるように,と.ただ,実際にクリシェの心は優しきものであったのは間違いない.かなり早い段階で,少なくとも身内を守るという点に関しては過剰なほどに尽くしていたし,それはついぞ壊れることなく,終幕までクリシェの存在を形成する一つの要素だったのだと強く実感する.

知らぬ者からすれば彼女はただの化け物であり,ある程度知っている者からすれば,悲しきモンスター.唯一,彼女の身内と判断された範疇の人々は愛すべき庇護対象であることを認識していたのだと思う.その穢れなき笑顔が崩れるところを見たくなかったから.実際に,読者である私自身読み進めるうちにクリシェに対してはどうしようもない愛情を抱き始めていた.たとえこの世の誰にも,ヒトですらなくても負けることのないクリシェであっても,否,だからこそその力を振るわせまいと.

しかしながら彼女の名は,後世にまで偉大なるアルベリネアとして語り継がれることとなった.少し嬉しいような,寂しいような,そんな気持ち.悪名ではない,それどころか戦いという点においてあらゆる方面において多大なる影響を与え,ずっとずっと先の世までその名を知らしめることとなった.普段ヒトを殺してもただの罪人となるだけだが,戦場でヒトを殺せば英雄.当時の者からすれば過剰に見えて,戦場であったにもかかわらず対外的に悪評を広めたのは実に悲しき,クリシェを愛する者たちにとって面白くないものであったと思う.ある意味で,クリシェはその強さのみで戦場に改革をもたらしたと言っていいのではないだろうか.結局のところ,クリシェのような強さを誇るヒトはおらず,さながら戦略兵器のようで.クリシェという事実上の戦略兵器,そしてジャレィア=ガシェア等の新技術を使った本当の新兵器.初めて見た敵には勝つ,というよりもただ殺戮を繰り返す悪魔だった.改革が当初反発を受けるのは当然,また時間によって浸透するのもまた必然.

本作の最初,説明の欄に

 クリシェ=アルベリネア=クリシュタンド――アルベラン王国将軍。
 当時追い詰められたアルベランを持久させ、その後の広範な版図拡大、大陸統一の中心となった人物。軍事史上最高の天才として語られ、彼女の魔術的発明は英雄の時代を終わらせた。その絶大な武勲と、現在にも伝わる彼女の魔術的遺産から、現在においても比する者なき英雄として広く知られている。
 反面、彼女が異常者であるという記述も散見され、当時の文献を紐解けばその冷酷さや無慈悲さが至る所に書き記されている。そんな彼女を冷酷なる殺戮者とする見方も多くあり、その実際は――

という文がある.私たちは,最初から知っていたことではあるが,”歴史”を読んでいたのだった.ある意味で,我々読者の視点と物語上の視点は同じだったのだろう.実際に本作は一人称視点での進行ではなく飽く迄三人称的表現に徹していた.これは今思えば単なる歴史書の一冊,それを読んでいただけなのだ.2年ほど前にもこういった三人称視点で進め,最終的にその意味を理解することができるという形態の作品を読んだ記憶がある(もののあはれは彩の頃。).作品をその登場人物の物語とするのではなく,あくまで第三者がその作品を読んでいるに過ぎない,それを実感したときなんとも名状しがたい清涼感に包まれる.

今まで読んでいた物語が突如,主人公(と認識していた人物)が見聞きした物語ではないと実感するのだ.そして暗闇に進むべき道を開拓していたのが,いきなりその暗闇の道中を俯瞰してみていることに気付く.ぼくは盤上の支配者だったんだなぁ.

ただ主人公の辿る道をそのままなぞるのではなく,歴史という大局的観点から切り取った一部でしかない.それは過去,当時生きていた人々の軌跡であり,意志である.それらを想うと,どうしても私は心がかき乱され,まるでその場に立っているようなありありとした感情の発露に見舞われてしまう.クリシェに先立ちこの世を去っていった者たち,特にこの上ない大往生を果たしたエルーガとガーレン.彼らが満足そうに今生を去っていく様はどれほどの寂寥感に満ちていただろうか.今思い返してもほのかな寂しさが香る.涙は出ない.決して悲しいことではないから.でも,ただ大切な人が一人,また一人と去っていくのを惜しむことは許してほしかった.

「......毎日のことだけれど。全く、こんなにしわしわになってもキスされるだなんて思っても見なかったわ」
セレネ゠クリシュタンドは呆れたように、今なお変わらない少女の挨拶にそう漏らし。
「えへへ、セレネはセレネですから」
幸せそうに少女の笑みで、当然のようにクリシェは返した。
「.....本当、お馬鹿は変わらないわね」

最後にはセレネも,当然と言えばそうだが,おばあちゃんになっていた.たしか,15で将軍となった.物語序盤から見ればそれよりもずっと前からセレネのことを見てきた.自分の視点が親のように思えたとか,そういう話ではない.純粋に100年近い年月の成長を見届けたという感慨深さ,時の流れという普遍的情緒における必然的帰着.それだけが私にとって何よりも重く,かけがえない.

異常者と呼ばれながらも大切な人たちからの愛に包まれ,正しく成長したクリシェが,戦いのない世で優しい少女として健やかに過ごす日々を願ってやまない.

大きな歴史の一幕として,無垢なる天才というものについて,時間という,ガラスのように繊細なテーマについて,これほど綺麗に作り上げられた虚構に,あらためて感謝を.

 

点数:89/100 文章:8/10 味:苦味,甘味,旨味

 

『傾国令嬢 アイのカタチを教えて』についてのお話

https://ncode.syosetu.com/n6985gk/

まず最初に、読んでなければ読んでください。とても良い作品です。

 

 

はい,ということで今回は傾国令嬢という作品についてお話していきたいと思います.本作,数か月前に発見して紹介文から非常に好みな作品だと思っていたものの,まぁあとでいいかという気持ちから読むのが最近になってしまいました.とはいえこの記事書いていることから答えは明白,すぐに読んでいなかったことをとても公開しました.いや,ここまで素晴らしい作品を消費するのを少しでも遅らせた,という意味でいいとも取れるが.まぁ見つけたときに読んでいればそのころからファンを名乗れたのに......! という気持ち(とはいえたいした時間差ではないので別にという感じではあるが.各メディア展開もないようであるし)の方が大きいのだが.

以前なろうでもっとも面白い作品はサイレントウィッチであると声高に叫んでいたことがある.現在でもその評は崩れたというわけではない.というのもサイレントウィッチと本作傾国令嬢の評価の関係は非常に難しいものがある.単なる作品の出来で言えばどちらもそう変わらないものであると感じている.では,双方の作品を別つ要素とは何か.

サイレントウィッチは主人公モニカ・エヴァレットの成長物語である.魔法以外何もできず,人に対してもさながら人に向けるような感情を持ち合わせていなかった彼女が自分の意志で,自分に不利であることを理解しつつ友人を助けたいと主張する様は感涙ものであった.感情としては王道,順当に人を揺さぶる利己正義の話であった.

一方傾向令嬢は......実のところこちらも主人公マリアの成長物語ではあった.全体を見通して,明らかに違う点ばかりであったが,この点に関してだけ言えば共通する.いろんなことが高水準なのに,人からの感情だけは鈍感というなんとも主人公チックなマリアは,不運にも幼少期,それもかなり早い段階で世界というものを理解してしまった.ここで言う世界の理解とは,簡単に説明してしまうと自身の考えを持つということに等しいと思って問題ない.しかしそれは最終的な結論であって,先にこちらを理解してしまうと世界の理解という表現について理解が及ばないかもしれない.そもそも私の考えでは自身の考えを持つということは,この世界そのものに自分なりの解釈を持つということであり,転じてその是非はさておき世界を理解したということを意味すると思っている.故にこそ,マリアはそのとき世界を理解したのだ.

閑話休題.なまじ自我の形成が早かったがためにマリアはついぞ精神的幼さを自覚する機会を与えられることはなかった.人を支配してしまえばそれでおしまい,一番簡単な方法であったし,マリアにはそれができた.マリア自身の性質と相まって精神的幼さの自覚はいっそう遠のいた.結局,成長と言える出来事はすべてが終わった後,唯一とも言えるマリア自身の失敗によってようやくその身に自覚したのだった.しかし遅すぎることはない.彼らには,人間と比べれば永久に等しい時間があるのだから.

双方単純な比較をすれば先に言った通りそう変わらないものであったと思う.しかしながら私が傾国令嬢の方が好きだと思う理由はひとえにマリアの耽美なる言動とそれを彩る作者の力量であった.

私は,この耽美なる作品について語るべき文章を何一つ持ち合わせていない.滔々と流れ出る数多の言葉,しかしそれらは独立していて,決して文章とは言えなかった.私が紡ぐのはただの言葉の寄せ集め,継ぎ接ぎの文章もどきを映し出すことだけなのだから.

愛を知る過程を,愛というものを,この作品では痛みを伴って教えてくれたけれど,私が知ることができたのは甘い愛に溺れることだけだった.だってマリアの囁く言葉はいつだってとても甘美だったから.でも,そうではなくただ一つ決して甘さに偏っていない愛があった.

「死ぬまで,貴方とマリアの関係は変わらない.いがみ合って,殺しあって,憎しみあって」

「知ってるよ」

呆れたように笑うアース.

そんな顔をさせたくない.

私は,わがままなんだ.

「......”公式上死ぬまで”,争い続けるんです」

私が言った言葉に,アースは眉を寄せて,それから目を見開いた.

「死者は人間ではない.どちらかというと,化け物寄り.だったら,王国より魔国に所属するのが当然ですよね」

「ああ,そうだな.死んだ奴が王国のそこいらで生きているのはおかしい」

「人間の寿命は普通,六十年? 七十年? わからないけれど,貴方はそれで死ぬのでしょう?」

「ああ,人間の王だからな.死なないとおかしい.だから,そのころには俺は死んでいるよ」

「あと五十年くらい? 長いようで短いわね」

「ああ,あっという間だろうな」

 

「......待っているから」

 

私はアースに背を向けた.歩みを再開する.次に彼と顔を合わせるのは,正面から.そして,ある時を境に,それらは隣になる.

そうだと,嬉しいんだ.

どれも耽美で,どこか歪な愛を育んだマリア.彼女の愛はついぞ修正されずきれいな形を保った.しかしながらそのどろどろに溶け合った甘美なる心にただ一つだけ生まれたごく普通の愛.それは化け物の巣窟に一点存在するヒトのようで,マリアの人間性のあらわれであった.散々ヒトであることを否定し,自身を化け物であると言い聞かせ続けた彼女がその最果てに見つけたヒト.

同性愛,異性愛,どちらも変わらず愛であり,その形態に差異などある筈もなし.本作においてマリアは同性を愛し,いつもそばに侍らせていたのは女だった.一方的に心を奪い,その実応えた愛はついぞなく.あるとすればミリアへの肉欲入り混じった親愛だろうか.

私は愛というもの,というより愛によって発生する関係,それは相互的であるべきだと思っている.愛を与え,愛を貰う.等価でなくともよい,相互的に与えたという事実が重要だ.しかしマリアは作中においておよそ愛を貰うという行為をしなかった.結局のところ,恋愛的愛はマリアには難しかったのだ.先述,アースと出会うまでは.

重ねて言うが,これは同性愛というものを否定しているわけではなく,今回この事象においてこうなったというだけの話.マリアは同性に与えた愛の返礼を受けなかった.故にこそ恋愛的愛は少なくとも彼女たちの間にはなかったのだと思う.だが,アースとの関係については話は別である.アースとマリア,この関係は対等だった.ともにいがみ合い,手を取り合い,またいがみ合い,最後にまた手を取り合った.その姿は熟年夫婦の貫禄すらも感じる.

マリアが作中で何度もつぶやく愛しているという言葉も,アースというヒトを前にした場合ではどことなく意味合いが異なっているように感じられる.

つまるところマリアの持っていた愛とはミリア,およびマリアの愛する者たちへ向けられた肉欲的親愛と,アースへ向けられたもっとも一般的な形で顕れた恋愛的愛の二つ,両者愛であっても客観的に受ける印象はかなり違う.でも,それでよかった.わがままなマリアが自身の本質を捨て去ることなど到底不可能だから.傲慢なマリアは,すべてが欲しいから.

数十年後,アースもミリアもヒトとして死に,どうか安らかに化け物として死後の生を謳歌せんことを願わん.

 

点数:95(2月19日変更前91)/100 文章:7/10 味:甘味,酸味少々,苦味少々

『FLIP*FLOP ~INNOCENCE OVERCLOCK~』感想

透き通るような世界観! 茉宮祈芹さんの原画! うおお、最強のゲーム!!

イオちゃん可愛い!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

はい、私はこのライターが苦手です(多重オブラート)。

多分この人の嗜好思考が苦手なので地の文で形容されるほとんどの事柄に以下略。まぁほぼ関係ないし言いすぎる可能性もあるのでやめる。

とりあえず、作品全体として、イオちゃん可愛いと言ってるだけなら普通に楽しい作品だったと思います。私が苦手といったライターの趣味嗜好なんかもヒロインを可愛く描くという点に絞れば概ね読者を満足させられる出来でした。

そのヒロインについて、本作のヒロインはいわゆるAIというものに区分されるものです。古今東西AIヒロインの存在はあれど、どれも決して欠かすことのできない描写と言えば、確かな人間性の存在。これをたとえどんなニーズに合わせて作られた作品だろうと欠かしてはならないと考えています。本作はどうだったかというと、AIである必要ありました……? でした。一応それらしい問いかけはあったのですが、基本的にとんとん拍子に解決。ものによっては放置(まぁ続編あることを考えるとここに突っ込むのは野暮とも(続編で解決されるかどうかはさておき))。ということでこの作品は恋人を造るという点に本質があると思いました。まる。

次に主人公について。これは要所要所で愚かな考えを実行すること含め実にエロゲっぽいなと思いました(エロゲっぽいとは??)。

これは事前にいろいろな事情があってイオを人間扱いするのは無理だよって、言われたにもかかわらず変な正義感を燃やして無駄なことをする主人公。それでこの後上手くいくってんだから気に入らん……(おい)。

 

不満点つらつら挙げましたが、本作を読んでいればイオちゃん可愛いってことがわかればそれがすべてだと思えるはずなので作品としては上々、良かったです。

 

うーん、イオちゃん最強に可愛い!!!ww

次回作も買います!

 

点数:55/100 文章:5/10 味:甘味

『竜姫ぐーたらいふ3』感想

 

ついにやってきました。あの伝説から約2年、そして神話を築いた日から約1年。この日世界の均衡は崩れ、やがて虚構は完成するのだと。私は何度も本作、及びこのシリーズを虚構の頂点と言い、広めてきた。苦節万年、ドラゴンでさえ決して短いとは思えないであろう時、数多の心ない言葉に晒されようとも虚言ではないと必死に訴え、やがて私は多くの理解者を得た。蒙昧なる多くの人間たちにドラゴンのすばらしさを啓蒙することに成功したのだ。ドラゴン3年、今日も私は元気にしています。

 

メイちゃん可愛いね💕

や、ほんとにメイちゃん可愛かった。例の如くドラゴン服(?)がとてもよく似合っていたし、目の色がエメラルドグリーンなのもよい。個人的に好きな目の色ランキング1位なので。本当にメイちゃん可愛くてハルもイリスもさんごも忘れ……るわけないでしょ!!! 私はドラゴンすべてを平等に愛するのです……(なおドラ美その枠には入っていないものとする)。

でもなんだろう、私としてはこの作品でもっとも魅力的なのがドラゴン服(?)状態で翼を出している状態なのだけど、メイ以外のキャラにはその状態でのえっちシーンがなかった。これは大きなマイナスですよ! イリスとさんごはまぁもともと流れ的にえっちシーンは一介しかないんだろうなぁと思っていたのでしゃーないと思えたけど、たしかメイと同じくらいの回数あったハルにもなかったのは号泣ものです。

そのハルですが、まぁ正直メイと同じ回数あるとは思ってもみませんでした。流石にそこまで入れるならメイ優先するかなと思ってたので。流石正妻(こら)。なんだかんだでハルのための物語だったんだなーって。結局最後に活躍したのだってハルだったしね。邪神ちゃん3期みたいなラストの展開は笑ってしまった。

……! 邪神ちゃん3期と言えばアニメ界における虚構の頂点まちカドまぞくに次ぐきんいろモザイクに次ぐ虚構の準準頂点……! やはり頂点に君臨するようなものはどこか共通項が見出されるものなのだね……。

しかし私はここまで読んで気付いてしまったのですよ。メイ、あんま活躍してなくね? と。いやね、3読んで抱いたメイへの感想って可愛いね、ちょっとかわいそうなところもあるね、くらいなんですよ。……パンチ弱くね?物語的に重要なキャラクターではあるんですよ。メイがいなかったらこの作品は成立してないようなものだし。でも、登場してから与えた影響があまりにも地味というか。ハルが強すぎるというか。まるで心根まで第五夫人かのよう……。メイちゃんとても好きなキャラクターだったのでもっと活躍させてほしかったなって、まぁそれだけです。

 

 

点数:100/100 文章:5/10 味:ドラゴン