思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』感想,他

 

はじめに

一体どれだけ待ったのだろう,この作品を語るうえで避けることのできない話題.ティザーサイトが公開されたのがたしか17年? そこからじゃあそろそろ,来年こそは,そんな気持ちを何度も繰り返してきた.......とは言うものの,実際問題私が初めてサクラノ詩をプレイしたのが発売後少し経ってから.そこから二回目のプレイはおろかこの作品について話すこともほとんどしなかった.というのも,最初の頃はなんだかもったいなくてと思い,この気持ちが洗浄されるまで一旦この作品は置いておこう,そして忘れた頃に再び向き合いたいと,どう思っていたからだ,ただティザーサイトが公開されてからは「じゃあサクラノ刻発売前にやるかなー」という気持ちに変わった.そんなこんなで気付けば2023年.おう,サクラノ詩ってどんな話だったっけ.てなわけで刻に対する情熱はすこーし,本当に少し,失われていました.その,失われた刻を求めて──私は詩の世界に再び足を踏み入れた────.

いやぁ,やっぱすごいよこの作品.前回受け取ったもの,今回受け取ったもの,やはりというかなんというか,この7,8年もの間に私自身の感性はだいぶ変わっている.それが最も顕著に顕れているのは2020年にさくレットをプレイしたときだろう.それ以前と以後で明確に違いがあったというわけではない.ただその作品がきっかけになった.さくレットという作品を通じて,私はこんなにも虚構に入れ込んでいるのか,こんなにも虚構が私に与える影響はすさまじいものなのかと.

正直なところサクラノ詩初回プレイ時の私は決して完成豊かとは言い難い.故にこそ冷静に虚構を見つめられたと言えばそれまで.だからこそ,当時私が感じた素晴らしさというのは感心した,という類の感情に過ぎない.傍から見れば感情がこもっているかも判断しがたい称賛.対して現在,私は放心状態にあった.もっともわかりやすい例として,六相図を完成させたときの直哉と健一郎との会話にある.しおらしく挑発的な直哉と,それに対する健一郎.件の贋作を健一郎本人に見せるということは,そういうことでしかなく,これは贋作を本人に見せたのではなく相手が一人というだけのお披露目だった.その関係が私にとって,否,ここまで読み進めた者として,どうして心動かさずにいられようか.

「稀代のペテン師にはお似合いの最後だな......」

「これは,お前が俺に捧げた墓碑銘だ.だから俺は,ここに自分の名を刻む」

「これは俺の作品じゃない」

「俺の死のために,草薙直哉が描いてくれた作品だ」

本当に,ただ嬉しかったという感情のほかにない.父草薙健一郎の人生の終着点にはこの絵があり,それを認められた.これを最上の喜びと言わずなんと言おうか.

と,今でこそ絶賛しまくってるこのシーンですが,先の自分,初回プレイ時は信じられないことにすげぇなぁと,真顔で称賛してただけなんですよね.やっぱり年齢って重要ですよ.その時々によって作品から受ける印象なんてものは180度変わり得る.だからこそ,昔好きだった作品や嫌いだった作品,はたまた何も感じなかった作品を今改めて摂取することのなんと面白いことか.そんなこんなで刻プレイ直前のコンディションは最高,この上ない開演でした.

 

Ⅰ章について

Ⅰ章からえげつないもの出してきたなぁって思いましたね,まず.静流さんの過去回らしいからまぁ前作で特に掘り下げなかったしな程度の認識で挑んだらまさかの不意打ちパンチ! はじめにでも話したが,この作品において贋作という言葉は一際重くのしかかる.贋作者が何を思って作ったのか,本当にそれは贋作と呼ぶにふさわしいのか.無論,贋作と言われる以上本人がそうであることを意図していることが多いのだろう.実際詩でも刻でもそういう扱われ方をした.

一体真の贋作とはなにか.それは一般的に考えられるような元の作品を忠実に再現したものだろうと思う.だからその作品が持つ性質が大きな主張をする必要はないし,否,元の作品を超えた,もしくは下回った主張をする必要はない.なぜならそうなった時点で単にモチーフの影響を色濃く受けたオリジナルでしかないからだ.

草薙直哉の六相図をフリッドマンは挑発的だと評した.父健一郎は煙を纏わずただ認めた.ただの贋作ではない.たとえ贋作の煙が漂っていても,心は澄んだ青空だ.認められた,その一点だけが直哉の心を,そしてそれまでの軌跡を見てきた読者である私も貫かれた.

故に輝く.静流さんと健一郎との出会いはまさにそういうものだったのだ.しかし当然,まったく同じというわけでもなし.口ではこう言うものの,直哉のときは皆が挑発的な態度であると言った.対して静流さんは終始罪悪感に満ちた態度で,とてもじゃないが作品を誇るという空気を醸せはしなかった.改めて得た気付き,それは誇るべき作品であるという自負.贋作だろうとそうでなかろうと関係なくこれは草薙健一郎が辿り着けなかった一つの到達点であると.

結局のところ,自分が自信を持って作り出した作品はなんであろうと素晴らしく,それを認められることは至上の喜びとなる.たとえ作品を取り巻く性質が濁っていても,真実は結果が教えてくれる.

言ってしまえば贋作を作り,そこに宿った魂を見つけ,認められた.それだけのこと.しかし直哉の件に関しては今までの下地があったから,当然響いた.刻をプレイするにあたって直前に詩をやっておいて本当によかったと思う.この下地が存分に生かされ,そのとき本章は最大限の力を得たのだと思う.

......と,ここでⅠ章については終わらせようと思ったのですが,一つ,話忘れていたことがあるのでそれも.

雪景鵲図花瓶を受け取ったときについて.

「世界中の人間が,この雪景鵲図花瓶を偽物だと言ったとしても,それがどんな権威だとしても私は譲らないわ!」

「だって......あれは本物なのだもの.私にとっては,どんなものより本物なのだもの......」

ああなるほど,これが中村麗華かと.中村麗華については前作の真琴ルートにて立ち絵がない状態で出てきたので彼女のたちを見るまでわがままな中年のおばさんを想像していた.実際中村麗華はわがままで,立ち絵こそ若々しく見えるがそんな若くもないだろう.ただ一つ見誤っていただけだった.それこそ彼女の眼,その本質に.嫌いな人間に対しての当たりは強いものの,そうでなければ芯の通った言葉を用い,また自身の限界を理解して努力を惜しまない性格だった.つまるところ,彼女は決して愚かではない.

その麗華が,ここまで強く,偽物であると知らされてなお本物であると主張することの意味は受け入れざるを得なかった.感動したとか放心状態になったとか,そういったわかりやすい反応ではなく,ゆっくりと受け入れ,ただ実感する.その感情がある意味で何よりも尊く感じられたとすら思う.

 

Ⅱ章について

安心してみていられる数少ないというかここしかない章.しかしその分サブキャラクターたちの主張がまぁ強い(恋愛ゲーム的な意味で).これ本当に攻略キャラクターいないってまじ......? そうなんですよ,事前に言われていたのでわかっていたことではあるのだが,いややはり,こうして結構なアプローチをかけられると「まじか,これみんなルートないのか」という気持ちになってしまったのは許してくれ.まぁなんというか,各キャラクターを見つめる章として非常に完成度が高かったと思います.

特に絶対オナニーを見たい女子高生たちは流石に笑ってしまった.鈴菜......そんなおもしれー女だったとはね.いや,この件に関してはみんな面白いんですよ.だってみんな先生のオナニー見たいって言うんだから.うーん,これは響で全ルートオナニー見せるやつか? これ,相手がいわゆるメスガキ的な態度とってなくても教師と生徒というどう足掻いても上下関係が捨てられない性質上精神的メスガキ感ありますよね.忘れてください.いやね,まず前提として私はなんでもかんでもメスガキって言う今の風潮が大嫌いなんです.なんならメスガキというものも正直好きではない.というのを踏まえて,これを言った意図を考えてください.はい,そうです.生徒にオナニー見せるのって,つらい,ですよね.だから響でこういう感じになったらつらいなぁって,思います.

 

Ⅲ章について

やはり一番話したいところは恩田寧と本間心鈴の絵画対決.これが本当にすごい.結論から話せば,単なる素人目なのかもしれないが,本間心鈴の描いた絵画を見て私は口を開けてしまった.絵画を専攻していたわけでも,美術に関して殊更造詣が深いわけでもなし.ただ,彼の絵画は一目見た瞬間に引き付けられた.文脈によるバイアスがかかってたのかもしれない.でも,それでいい.大事なのはそのとき私がすごいって思ったこと.それをサクラノ刻から学んだよ────.

まぁなに,才能や技術が透けて見える絵.恩田寧の絵はまさしくその権化とも言えよう出来栄えだった.実際彼女は恩田の血筋であることを強く主張していたし,果ては心鈴の血筋をひどく貶した.心意気からして彼女はあるかもわからない才能に溺れていたのだろう.恩田寧に,仮に才能があったとして,また三色型色覚と四色型色覚の切り替え.これらを持つ恩田寧はたしかに技術のある才人なのだろう.しかしそこから見えるのは技術と才能でしかない.まるで血筋という名の才能が武器であるかのように,まるで三色型色覚と四色型色覚の切り替えが最強の武器であるかのように,そんな振る舞いが恩田寧の才能を顕にしてしまった.なるほどたしかに,自分の持ち物に頼りっきりで,それに隠れたような振る舞いは決して勇気とは言えない.だからこそ,後の三週間は彼女にとって一生というスパンで見てもきっと,かけがえのない宝物の日々になるのだろう.こうして私は画家が生まれる瞬間に立ち会えた,そのことがこの章を読んで得た宝物の一つとなった.

それでですよ.この流れで読み進める心鈴ルートのなんと素晴らしいことか.真琴ルート先に読むか迷ってたのだが,全然,こっち最初で良かったと心から思う.

心鈴ルートに関しては二つ.一つは本間礼次郎という男の本質に相見えることができたということ.礼次郎はずっと,鳥谷紗希によって得体のしれない男,という評が付いて回ったため,本当にどういう対応をしてくるのかずっと悩む羽目になりそうだと思っていたのだが,心鈴ルートの最後にて,健一郎と礼次郎の対話を見てその気持ちは霧散した.彼は本質を見つめ,それを貫く男であると.とはいえここではっきりとしたのはこれから先の展開で,芸術において無粋な真似だけは絶対にしないということだけだが.六相図の件然り,爆弾はまだ全然処理できていなかったのでね.

二つ目は心鈴ルート全体としての完成度の高さ.心鈴がね,まぁ可愛いんだ.告白のシーンは本当に素晴らしかった.ここで直哉,というより草薙の生涯ひとりの女しか愛さないが効いてくるんですよ(あたしだけですか?).恋愛ゲームとして,至上の完成度.ぐるぐる目,愛おしい.影のCG,ロマンティック.やっぱ心鈴なんだよな,このキャラクターがサクラノ刻で一番かわいいよ.

 

Ⅳ章について

そんでⅢ章からのこれですよ.身近な人物の死という工程を挟んでいる以上,このルートはある意味でもっとも力が強かった.そもそもⅢ章の終わりで藍が章一に拘束されてて,そのままⅣ章に入るのかなと思ったらこれ.正直最初の方読んでるときは気が気ではなかった.なにせ六相図の秘密がバレて,怒り心頭の章一が家にいるんだから.前作から引き継いで,サクラノ詩と刻,全体を通しての見せ場と言ってもよい.それがついに,と思ったら圭の過去編が始まったと.とはいえそんなことを考える余裕なんて結構早い段階で消えたが.圭の生い立ち,草薙健一郎との出会い,草薙直哉との出会い,絵以外のすべてを捨てるに至った出来事,心鈴との出会い,夏目圭という人物を構成するすべてが走馬灯のように,事実学生でその幕は閉じてしまったとはいえ一つの章で語り切るにはまさしく走馬灯のようなことであっただろう.

詩の時点で,圭の絵画に対する想い,草薙直哉という人間個人に対する想い,それらがいかに大きなものであるかは想像に難くなかったが,彼の内面から見つめ,彼を変えるに至った各出来事を見ているとそれを遥かに超える精神の浄化を得たことは必然だった.

もともと,圭は天才と呼ばれていたし,あの草薙健一郎に認められて宮崎絵画学校に通うことになったのだから多少の驕りは許されてしかるべきだろう.しかし,その天才性が更なる天才を前にしたとき果たして自分自身が許せるだろうか.否,許せなかったからこそ圭は向日葵を描くことができた.向日葵の絵を描くに至るまで,圭が並々ならぬ努力を重ねていたことは知っていた.それが具現化されたとき,圭という人間の想いを,重みを,初めて実感することとなった.だから圭が死に際に放った言葉,

直哉──

たぶん,俺はお前に追いついたよ.

今度はお前が走り出す番だ.

この言葉を私という器だけで受け止めきれる自信はない.

ただ......そう,夏目圭は誰かの背を追うことを知っていた.決して直哉を同格の存在とみなさず,自身が辿り着くべき目標と捉えていた.このことを知っている天才から教えを請うた宮崎みすゞは,きっと良い画家となるのだと思える.圭は,圭だけは,絶対にまがい物ではない天才だから.その精神を知る彼女の絵はきっと何よりも魂を震わせる.

 

Ⅴ章について

ということで一番の問題児(後述).

まぁクライマックスですよね.本当に,すべてがここに重なる.だからたとえ納得のいかないことがあったとしても受け入れられないという類のものではなかったし,それは私個人という範疇で収めることができた.

これは作中何度も示唆されていたことだが,御桜稟は草薙直哉に再び筆をとらせるために世界的芸術家となった.そしてアリア・ホー・インクもまた,同様の思いで筆をとった.恩田放哉がⅢ章にて今の芸術界の化け物たちは一人の亡霊が生み出していると言われていた.つまりこれは,そうやはり,草薙直哉のための物語だった.そのけりをつけるために交差したすべての想いが,どうして読者の心を打たずにいられるだろうか.

だから,いろいろあれど,直哉が再び筆をとり,ライヴペイントの一回戦,宮崎みすゞとの勝負での筆を持ったCGは何度見てもそれだけで感動してしまう.ああ,これが草薙直哉の眼なんだ.彼があの眼でキャンバスを見つめ,筆をとる姿というのはそれだけで美しく,見惚れてしまうものなのだと.

なのに,まだ先があったなんて! ......というのはまぁ,OPで右手に筆持ってるCGあるので知ってはいました.知っては.だって,OPでそれ見ただけであらゆる想いが溢れ出してきて決壊しそうだったのに,この文脈をもってして世界を描く.これが,これこそが,かつて日本画壇の老人たちを戦かせた櫻の芸術家.草薙直哉という男があまりにもカッコよすぎる.それでいて「奇跡」の力によって一時的にでも草薙直哉と張り合える力を得た長山香奈,この演出は流石に粋だと思いましたね.

......でも,だからこそその後の展開は受け入れたくなかった.というのも,シナリオとしてはこれを受け入れる下地は十分にあったから,納得せざるを得なかった.

まずこれについて単純に私の理解をまとめると,伯奇の力を使って直哉は稟との勝負に使う絵を描いた.そして,御桜稟は,ずっとその力を使い続けて絵を描いていた.アリア・ホー・インクは,その力があったからこそ,自身の天才性に目覚めることができた.これって,なんだかすごく気持ち悪いと感じる.長山香奈はよかった.なぜなら彼女は終始凡人として描写されていたから.凡人だからこそ,一時の軌跡は輝く.しかし彼,彼女らは違う.曲がりなりにも「天才」として描写されていた.

私は,天才の先天性を信じてやまない.天才という存在に神が宿る.それを否定するつもりもない.天才とは読んで字の如く天の才,これは天から与えられた人ならざる才能であり,凡人の眼で見てしまえば次元が違うと,そう絶望してもなんらおかしくはない.それが天才という存在の業であると私は認識している.もちろん,先天的な天才性というものは遥かに高い純度で持ってはいたのだろう.実際直哉は最後以外に伯奇の力を使ったような描写はないし,里奈もなんだかんだですごいと言われている描写はあった.また,御桜稟も幼少期,流石にあの年齢で文字通り血を絵画に変えるような真似はしていなかっただろう.だから,すべてがすべて,否定されたとは思っていない.でも,やはり最後直哉が描いた絵が彼自身の才能によって描かれたかは疑問が残るし,里奈と稟は言わずもがな.そして私は書いているうちに才能という言葉を妙に強調してしまっていた.これでは人が絵を描いたのではなく,まるで外的な才能という何かによって描かれたのだとすら感じてしまう.そう思ってしまうと,どこか圭という存在が否定されてしまった気さえする.それが何よりも悲しい.

とはいえだ,先述の通りシナリオ的にこれを受け入れる下地は十分にあった.だからこそ,直哉が最後の人筆をいれて櫻ノ詩が流れ始めたとき,私は思わず涙を流してしまったのだろう.正直,ここまでくるとこの展開が嫌だとかそういったものは抜きにして,ただこの物語のすべてが美しく見えた.

本当に,直哉は世界の限界を超える絵画を描いたのだと思えて,圭がやっとの思いで追いついた草薙直哉は,またしても先頭を走りだしたのだ......と.

 

Ⅵ章について

本当に,感慨深い.かつて卒業とともに皆が離れて行ってしまった弓張,けれどこうしてすべてが終わればみんながいて,それが本当に嬉しい.きっと直哉の戻ってくる場所は常に守られているし,きっとみんながいるのだと.かつて詩のⅥ章ではフリッドマンとともに戻るべき故郷のないことの悲しさを語ったこともあったが,それとは対照的に暖かな戻るべき場所として描かれていた.決して旅先で死ぬことはなく,故郷に骨を埋めることができる幸せ者だ.

 

おわりに

いや,本当にめちゃくちゃ良かったです.プレイ前,というより詩の再プレイ前,正直あるのは後でいいかとか思ってた自分は本当にバカ.時間置きすぎて熱も冷めてたけど,いざやってみれば本当に素晴らしい作品でした.前作からの続きであるということもありますが,作品としての力が並みではないし,何度精神の浄化を味わったかは覚えていない.ただ見せ場と思しきポイントを読むたびに浄化されて口を開けていたのは覚えている.

下の点数から,永久に私の心に刻まれる作品であることは覆しようがない.これから先,もしかするとまたこの作品に触れて同じことを思ったりもするのだろう.そんな日がまた来るかもしれない,それを想像するだけで私の心は躍るように軽やかになる.

またこのブログを書いているときも,内容を思い出すために何度かスクショを見返して,そのたびにプレイ時に抱いた感情を多少劣化はしているものの,そう変わらない大きさで感じることができた.単純に物語から受ける力,そういった視点で見た場合サクラノ詩,刻はこれ以上ないとすら思える.なんだか最後に上げすぎてキモいと思ってしまうが,まぁ本当に,それほど強い印象を抱いた作品でした.

 

 

 

点数:96/100 文章:8/10 味:旨味,苦味,酸味,塩味少々