思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

性癖と向き合う

好きか嫌いかで言えば好きだけど別にそういうわけではないです。

小さい子の話。

なんだかわたしの好きなキャラ、振り返ってみると小さい子が多い気がするんですね。決してそういうわけではないし、わたしのタイプ(性的に最も興奮する相手の特徴)は頭がよくて、わたしの知らないことをたくさん知ってて、ちょっとSっ気があって、胸は控えめで、白髪っていう感じのキャラなので。うん。最近だとさ、冥契のルペルカリアの未来とかどストライクだったわけですよ。そこまで背高くないけど。あと最近じゃないけど水葬銀貨のイストリアの紅葉もめっちゃくちゃ好き。背低いけど。ああそれとさくれっとの所長だね。多分理想ほどではないにしろ背は低くなかった筈。ルクル作品のキャラは割とどストライク性癖のキャラ一人はいるな。かみまほだと妃がね、もうね。背はまぁうん。

理想の背、自分が165~で相手が170~って感じ。……わかってる。そんなキャラ未だかつて見たことない。というか上記の要望満たしたうえでヒロインの背が高いエロゲ、ありますか? あったら是非とも教えてほしい。教えてください。

端的に言って、男が女に対して抱くテンプレートを自分に求めている。だからこそって言うのかな、ほんと力持ちになりたくないので筋トレは必要に駆られたとき以外は絶対にしない。おかげでわたしの腕を見た人は細くて白くて綺麗だね~と言ってくれます。嬉しい。みんなもわたしのことは女の子みたいだね、もしくはそれに準ずる言葉をかけると喜ぶよ! なお性格面について女っぽいと言われるとイラつく模様。

ところでこんなわたしは絶対Mよりだろうとみんな考えてると思うんですけど、まぁ、間違ってはいないけど正解でもないというか……。一方的に罵られるのは嫌いなんですね。プライドだけは高いので。こう……二人で高めあえる関係がいいですよね。多分これは共感してくれる人は多いと思う。相手の下にはいたいっていうのはまぁある。これもなんというかいろいろあって、最初に言った頭が良くてっていう部分がここに大きく起因します。つまるところ、バカはキライ!(馬鹿ではないところがミソ) 

あとそうそう、最初に挙げた好きなキャラ、妹が2人いたけど別に妹キャラが特別好きでもないです。姉でもないよ。そこら辺については特にこれといった拘りはない。強いて言えば血を別つ姉、妹と肌を重ねあう背徳感はフィクションだからこそ体現できるものだと思うし、好き。ルペルカリアのな、未来とのせっ……のシーン、正直めちゃくちゃ好きよ。あの背徳感堪らないのですよ。事前に背徳的に思わせる世界を作り上げてるのもまたいいね。ルクルの描く兄妹ははっきり言ってとても好き。でも何度も言うけど妹が特別好きというわけではないので!!

良いものなんてそこら中にあるんですよと。わたしが好きなキャラははじめに言った通り。でもだからってそれだけが好きなんてことはない。でもでも、そういうキャラが出てきたら、いつも以上に嬉しいよね。

わたしは……いつまでも上を見ていたい。隣にいる人がその上だったら嬉しいなぁ……ってね。現実問題白髪という部分は厳しすぎると思うので、わたしのタイプ(以下略)は頭がいい人なんですよ。はぁ、出会いが欲しいよ。正直、分かんないよ……なんであたしが告白されないのか。ロマンティックに告白とか、されてみたいっ!

うん、そういえばえっちげまオタクとかいうとんでもないデバフかかってたの忘れてたわ。

『冥契のルペルカリア』感想、他

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前語りについてはまぁ、気持ち悪い私のことが書いてあります。別に読まなくて大丈夫ですが情報量的にはメインです。何書いてるかわからねーと思うが((( 演劇ということでいつもより妄想が多かったのでまとめた次第。

前語り

自然に、不自然を演じる。大仰にことを語り、観客の心をこれでもかと震わせる。私は、そんな演劇が大好きだ。私のような人種、つまるところ中二病の皆様におかれましては、やはり演劇がお好きなのでしょうと存じます。はてさて本作冥契のルペルカリアではその演劇が題材とされていますが、それもやはり、私の心をひどく震わせました。そして確信めいた感情を抱いたのです。この作品は、私の心に永く、それはもう永く残るでしょうと。

あなたは演劇に何を求めますか。そこでドラマのようなものを答える人は、一生かかっても演劇の良さを知ることはできないのだろう。自然に、不自然を演じる。大仰にことを語り、観客の心をこれでもかと震わせる。きっと、理解できない。悲しいよ。とても悲しい。これは単に役を作り上げて、作中の人物を模倣するだけではいけないんだ。役者自身の心が、役に存在していなくてはいけない。

「‘‘俺はまだ生きてゐるぞ!‘‘」

そう、生きている。彼女は依然、生きている。ドラマであれば、たとえ死人がこの言葉を言おうと構わない。だが演劇であれば役者は生きていなければならない。演劇とは、そういうものだ。カメラ越しに見るか直に見るか、その程度の違いが物語としての性質の違いに大きく関わる。カメラ越しのそれは、事実模倣で構わない。いや、寧ろ模倣がいい。しかしだからこそ生者の演技を死人にも許すことができる。所詮はカメラ越し、視聴者は役者の演技を表面上でしか見ない。そうやって非日常を創り出す。

だが、直に見ればそうはいかない。否が応でもその人を見つめることとなる。役者もまた、自身を曝け出す。カリギュラは折原氷狐である。カリギュラの生を貰い受けた氷狐である。演劇とは日常の延長戦上にあり、日常の中で非日常が演出される。何もかもが日常であって、そのすべてはただの演出である。

役者は役者、役者自身。カメラ越しのそれは役者自身でなくとも、演劇のそれは役者自身である。そんなものに、果たして真実の自分と役の自分の境界線など存在しているのだろうか。

あの憎きオーディン王、ロキは彼を討たねばならぬ。悪逆非道の限りを尽くしたオーディン王、彼を討つことになんの躊躇いがあろうか。しかしロキは躊躇う。在りし日の優しき姿をこの悪逆非道の王に重ねていたのだ。そして知った。やはり、ああやはり、あなたはあの時のままだ。あなたは、唯一己の信念のみを貫きここまでやってきた。

「それでも僕は、君を恨むことはないよ。あの日、君が僕にくれた優しさは──あらゆるすべての暴力にだって、壊されることはないのだから」

理不尽なだけの暴力に比べたら、信念を貫いた暴力は、痛くもなんともない。あなたが信念を貫いてこの非道な行いをしたと言うのなら、僕は甘んじてそれを受け入れようとも。 

 さてめぐりにとってのオーディン王とは来々であったが、問題の解決は演劇を通じて行われた。激しく感情を震わせ見事役を演じきって見せたが、それはあまりに彼女自身の感情が強いものであった。まるで親の仇のようにオーディンを憎み、果てにその感情を抑えることはできなかった。

稽古中や劇中以外でのめぐりは果たしてめぐりだろうか。否、その問いはナンセンス。答えは境界線などはなからないというわけだ。抑も日常の内に非日常を演出すると言った。演劇とは日常の延長であり、役の生を貰い受けた自分に他ならない。やはりそれは日常であって、さすれば観客と役者の間に明確な差異は存在しないのではないか。

だが以前私はこう言った。舞台と観客席は絶対的な壁で仕切られており、観客は役者を冷酷な目で見つめる。だが舞台も観客席も同じ日常ならば、そこに差異など存在しないのではないか。そう、事実としてないのだ。境界線ではない絶対的な壁、それは紛れもない空気だった。自分は演者ではないのか、それとも単に台詞のない演者か。どちらでもいい。冷酷ですらない。最早見つめてすらいない。観客は役者のいる場所を非日常だと信じて疑わない。単なる認識の違い、けれどもそれはあまりに大きくて、まるで舞台が非日常のように見えてしまう。結果としてそれはカメラ越しのものと何ら変わりない印象を抱かせ、人々は興味を失う。

 非日常とは虚構であって、だからこそ人々を魅了する。演劇とは事実であって、だからこそ人々を魅了する。非日常の演劇など、存在価値はないのだ。偽物の演劇、故にそれはFAKE END。虚構世界に於いて環が誰かと結ばれることはなかった、これが正しい。

妹の愛によって創造された世界、けれどその愛は別の人間が貰い受けた。ああ朧、なんと憐れな。こんなにも環のことを愛していると言うのに!

「君がそれを求めていないことは、分かっている。だけど僕は、この想いを打ち明けないわけにはいかないんだ。気持ち悪いと思われても構わない。だから、どうか、耳を傾けて、心して聞いて欲しい」

「I love you」

環に殉じた朧の生は確かに愛に溢れていたんだろう。

さてさて、然れどもこれでは役者のアドリブが過ぎるというもの。役者は台本に従ってさえいればいい。多少のアドリブは良くてもあまりに多くては毒である。観客がしらけるぞ。ああ駄目だ。もうこの舞台は維持できない。

台本従ってさえいれば、こんなことにはならなかったというのに! どうしてだ、どうしてだ。なればこそ、この世界は愛情でできていたんだ。

だからすべては虚構、逃避、問題の先送り。何もかもが未解決のままだったんだ。だからね、バイバイ。お兄ちゃん。役者たちは次々と退場していった。悲しいね、悲しいよ。世界の果てはすぐそこなんだ。

これは月を求めて月を諦めた兄妹の物語。無理なものは無理と割り切って、さぁ前に進んでみよう! 彼らはどうだ? きっと幸せだ。

「物語に必要なのは、悲劇と涙だけなのだから」

「白髪赤目が導いてくれる」

「みんなにとっての前途多難な現実を」

正しさに殉じよう。それがきっと正解だから。

 

 

 

迫力がすごい

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演劇って、すげぇんだ。舞台って、面白いんだ。芝居って、もうやべぇの。いやもうほんと魅入ってしまったよ。演劇のパートは全てオートで進めてた。声優さんの圧巻の演技を是非とも最後まで一言一句逃さず聞きたいと思ったから。

絵と誤字

ウグイスカグラの代名詞! 崩れた絵と酷すぎる誤字!

さて今回はというと問題なかったですね。まぁイストリアと比べたら寧ろ悪いものの方が少ないですが。絵はまぁ相変わらず安定はしてなかったけどイストリアほど酷く崩れてたというのはなかった。誤字もなかったかな。多分。

感想

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全体として本作は非常に私好みであった。演劇という心揺さぶるものに加えてルクル作品の残酷な世界観。それらが織りなす美しい世界は否応なしに私を彼の世界へと誘う。やはり彼の作品は純粋に「面白い」と思わせてくれる。そういう意味では去年発売したエロゲに勝るものはなかったと感じる。

 

ところで本作、なかなか否定的な意見が多い。ざっと見ただけでもウグイスカグラで一番面白いのが本作だと言ってる人は私だけだった。つらい。人によっては割と大差付けてかみまほイストリアのほうが面白いと言ってる人もいる。なぁなぁなぁ、そこまでかよぉ!? 良かっただろ……? それとも演劇好き好き補正掛かってるだけなのか? そうなのか?

まぁ私はなんと言われようとルペルカリアが一番だと主張しますよええ。

(みんな来々推してるけど朧もかなり良いと思うんだ。I love you.をloveの重さを強く語った後に言うんだもん。これは惚れますわ)。

 

 

 

点数:89/100 文章:6/10 味:苦味、旨味少々、甘味少々

『プリンセス・プリンシパル Crown Handler』を観てきた

はい、ということで観てきました。Fateの一章と二章を見たにも拘らず三章を観なかった程度に映画館苦手な私ですが、流石にこれは観ました。そのくらい好きな作品。

 

 

大まかな感想

好き補正掛かってるかもしれないが、かなり面白かった。予告映像であった

「お懐かしいですな……10年ぶりでしょうか、シャーロット殿下」

の部分、分かってたけど最高だね。私こういう描写にめっぽう弱い。

アニメのファンが求めていたようなものは基本的に入っていたし、作品単体として見ても十分良かった。今回の主役であるウィンストン、彼がいい味出してたね。まぁ分かってはいたけど今回で触れられたことはウィンストンとその周辺の出来事のみ。流石に6章構成ともなれば贅沢に尺使えるだろうし事の真相は後半だろうからそこらへんうまく使って深みを醸してほしい。

詳細に色々

ウィンストン、本当に好き。侍従長であり、幼い頃からシャーロットのことを見守ってきながら、その正体は共和国のスパイ。しかしシャーロットへの愛が偽物だったというわけではない。最初こそ気付かなかったものの、アンジェの姿を一目見たときからアンジェが本物のプリンセスであることに気付いた。それからかどうかはわからないが、作中彼はアンジェをシャーロット殿下と呼び、プリンセスをプリンセスと呼んだ。きっと彼なりの区別だったんだろうな。プリンセスをこの国のプリンセスとして心から尊敬していた。彼にも国の実態に対して思うところがあり、それを変えたいと願うプリンセスをこそ真の王女と認め、プリンセスと呼び続けた。しかし途中共和国すらも裏切ってしまった。確か1章ではそれについて明確に明かされなかったけど、私はウィンストンが目先の欲に眩んだのではなく、正義を信じてそれが最善であると選んだ道なんだと信じたい。

そして最後はスパイらしい最期を迎えたこともまた良し。嘘つきの最期はこんなものであると。そしてシャーロットにはこんな最期は迎えてほしくないと。この時の悲壮感漂う雰囲気は非常に好ましい。やはりウィンストンは実の孫のようにシャーロットを愛していたのだなぁ。アンジェたちには、せめて仲間くらい真実を話してほしいと思ってしまった。実際この秘密を知っている者は王国内にまだいるのか、それともウィンストンの死によって闇に葬られてしまったのか、いやはや、次回が楽しみでならない。

 

 

因みに、来場者得点はアンジェとベアトのポストカードでした。あたりだ、やったね!(まぁポストカード他に見てみたけどはずれっぽいのがそもそもなかったんだけど

というか映画だとところどころ曖昧なとこがあって、それを確認できないのは結構つらい。

タイトルのお話

良いタイトル、悪いタイトルっていうのあると思う。それについて個人的な基準? というかこういうのが好きっていうのを適当に話していこうかと。

特に構想とかなしに書いてるから読みづらいかもしれない。

 

 

まぁ良いタイトルとは何かって話なんですね。取り敢えず例を挙げると

パッと思い付いたのだとこんな感じ。他にも(勿論エロゲ以外にも)あるけど取り敢えずこれで。

これだけで

  1. 【名詞】の【名詞】
  2. (【形容詞/名詞】+)【名詞】
  3. 【主語】+【動詞】

というような形が挙げられる。実際これらの形が最も簡単に良いタイトルにすることができると思われる。

抑もわたしとしてのタイトルは主に内容との調和、語呂の良さ、簡潔さ。そして単純な見た目の美しさ。それらを統合してタイトルの良さとしている。上記はその四つをしっかり満たしている。ただまぁ、身も蓋もないことを言ってしまえば、第一印象が全てとも。とはいえそれはまったく正しいことであるとも思う。というのも物語に於けるタイトルとは一であり全である。その作品で最初に目にすることになるのはタイトルだろう。物語進行中も何度も見ることになるだろう。そして最後にもまた、見ることになるだろう。タイトルは作品に触れる限り常に付きまとうものである。だからこそ、タイトルはその一で、全てを表さなくてはならない。

少し話は逸れるが、よく受験英語で本文のタイトルとして最も相応しいものを以下の内から選びなさいという問題が出題される。これは生徒に教える際、必ず「一部ではなく全体に通ずる事柄を選択しなさい」と言う。そりゃ当たり前。なぜならタイトルだから。

ところで先ほど良いタイトル足らしめる要素の一つとして簡潔さと言ったが、これについては常にそうでなければならないというわけではない。長いタイトルと言えば、というレベルで話題に上がるなろう系作品、多くは不毛の限りを尽くしたものであることが多いが、語呂の良さという一点で見た場合意外にもわたしとしての基準は満たしているものが多い。まぁ抑もどんな馬鹿でも語呂の悪いものをタイトルに採用するかって話なんですがね。美しいかはさておき、決して言いづらい文ではない(というかなろう系なんて大体構文化してるし考える必要もないのかもね!←)。そう考えると語呂の良さはタイトルを決めるにあたっての最低条件であるように思える。

まぁ長いタイトルはなろう系だけではありませんよと。最近だと『さくらの雲*スカアレットの恋』なんかは短くはない。また同ライターの『もののあはれは彩の頃。』も短くはない。また言いづらくもないし、綺麗だとも思う。内容と照らし合わせてもよく全体を包み込めていると感じる。

でもなろう程長いタイトルはやっぱそんな見ないなぁって。いやー、抜きゲなら結構見るか。まぁそれくらい。正直なところ、あまりに長いタイトルはどこかふざけたような雰囲気が感じられるような気がするんだよね。製作に対して真摯ではないとかそういうのではなく(そういうのもあるけども)、内容がという意味で。というかそういう意図でタイトルつけてるんだろうなって作品は多いし。真面目に真面目な内容であんな長いタイトルつけるのってラノベ独自の文化的なイメージあるね。

 

ここで悪いタイトルなんかにも触れようかなと。取り敢えず例を出すと

例の如くこの羅列に意味はないです。パッと本棚見て目に入ったのがこれってだけ。

いつ空から行こうか。正直言わなくてもわかると思うんだけど、読点が多い! 最大でも一つだろ……とわたしは思いますがね。さっきさくら、もゆ。を良いタイトルとして挙げたけど、読点一つだし、句点はどうせ最後にしかつけないからノーダメだし。というかさくら、もゆ。は何より芸術点が高い。さくらもゆでもさくら、もゆでもなくさくら、もゆ。なんですよ。実際この三つだったらこれが一番いいしね。

というか朱門優のタイトル命名センスが致命的。きっと、澄み渡る朝色よりも、とか天使の羽根を踏まないでっとか。きっすみはまだいいとして、天使の~はちょっときつい(てかどうやって略すんだろこれ)。こうさ、内容的にももっと示唆に富んだタイトルだったらいいなぁと思ってる。

次はつきかななんだけど、最後のましょうってのタイトルにつけられるの嫌ってわかる? それで割と芸術点下がってる感じだね。まぁ逆に言うとそれだけ。

で、三つ目の幼馴染が絶対に負けないラブコメは……見ての通り。芸術点が欠片も感じられないよね。内容自体はつまんないとは思わなかったけどタイトルがカス過ぎる。ほーんとさ、なろうでもそうだけどタイトルは状況説明の場じゃないんだ。いや、分かるよ、昨今タイトルで状況を説明したほうがいい的な風潮あるんだよね。でもわたしにそんなの関係ないから無視するね! だからくそ!

 

……思うに、芸術点が殆どなのでは? それ以外の要素が単に副次的なものにしか感じられない。まぁ芸術点なんていうのも結局第一印象なわけで、それを細分化すれば最初の調和語呂簡潔さになるとは思うんだけど。

ただここまでいろいろ言ってきてなんだけど、世に出てる作品でこのタイトルゴミ! ってなる作品って実はそんなない。大体は「普通に良い」。

タイトルの影響ってさ、プレイ後の恍惚感の上乗せが一番あるかなーって思う。

「良い物語だった……」

という感情の中タイトルを見て、、、……も、もののあはれですねはい。はい、はい。つまりそういうことなんですよ。はい。

親の仇

 わたしの父はシャンプー、母はリンスという名だ。平凡ながらも幸せな家庭で、恙なく日々を過ごしていた。しかし、悲劇はある日突然やってきた。

 わたしたちの前にリンス・イン・シャンプーを名乗る者がやってきて、父と母を殺した。わたしも殺されると思い目を閉じた。するとリンス・イン・シャンプーはわたしを抱きかかえ、以来彼が親となった。

 彼との同居は無論気持ちのいいものではなかった。加えて彼の性格は乱雑という他ない。その最たる例が、一緒に入浴している時だ。昔は父が頭を洗い、母が仕上げをしていた。しかしわたしの両親は彼に殺され、今はもういない。だから彼に洗ってもらうしかない。

 曰く、「仕上げをせずとも綺麗に仕上がる洗い方ができる」らしい。

 わたしは信じて髪を任せた。すると、どうだろう。櫛で梳こうにも、これがなかなか引っかかる。確かにシャンプーだけよりはマシかもしれないが、それでも耐え得るものではなかった。しかしわたしには頼れる人が彼しかいない。もうずっとこの生活を続けるしかないのだ。

 だが、転機は予想よりも早くやってきた。2週間くらい経ったころ、まともに梳くことができない髪にすっかり憔悴しきっていたわたしはいつものようにお風呂へ向かっているとちゅう、事件は起きた。扉を開けるとリンス・イン・シャンプーが倒れていた。見るも惨たらしい姿で。状況が理解できなかった。なぜならその横に、父であるシャンプーと母であるリンスがいたからだ。

「迎えに来たよ。さぁ、帰ろう」

 そう言ってわたしの手を引いた。断る理由はないし、自分が待ち望んでいたことだ。それなのに、どうしてか少し寂しい。たった二週間で、愛着が湧いてしまったのだろうか。あんなにもがさつで、その上親を殺した───いや、生きていた。そうだ、生きていた。つまりあいつへの感情なんて最早がさつな人、それだけなんだ。ああ、だとすれば少し可愛いと思えてくる。一緒に暮らすなんていうのはもうごめんだけど、友人として出会っていたならいい友人になれていたかもしれない。

 因みに後になってわかったことだが、これは母が企んだ計画らしい。目的はわからないけどとにかくリンス・イン・シャンプーと一緒に生活させたかったのだろうか。

 

 要約:二週間くらいリンス・イン・シャンプー使ってたけどあいつどうしようもないくそですね。あれを買ってきたマムが少し嫌いになったよ。まぁ結局もとに戻ったけど。

良すぎることは悪いこと……?

何かゲームを起動して少し経つと決まって頭に浮かぶことがある。

DMC5/MHW/ブラボ、やりたいな……」

と。これは最近の傾向で見ると100%起きている。そのせいで楽しんでいてもどこか興を削がれてやる気がなくなる。

それを思う理由として、以前言った「この三作がわたしがプレイしてきた中で最高水準のアクションである」ということがある。他にダクソ3やベヨネッタ、ニーアオートマタがあるが、これについてはまた今度話そう。この三作のまさに最高のアクションをプレイしないとどこか不安になる。それ以外のアクションも楽しいのだが、何か違う。かの神格化された三作をプレイしないと落ち着かない。あれだな……幾つかの作品を神格化して完全な停滞を望む老害と同レベル。ダメみたいですねぇ。正直な話これになり得るので気をつけたいなと。

ゲームそのものがつまらないと思い、そのくせ自分の好きなゲームは絶賛しまくる。うん、老害どもとなんにも変わらんな。そういうやつらがエロゲ衰退論をしきりに唱えてるんだろ? 事実の如何にかかわらず、気分下がるからやめてくれ。

わたしはそっち側に行きたくはないけど、気が付いたらそうなってた、あり得る。もともと感情で行動することは割と多いので、笑いごとではない模様。

……ねぇ、良すぎることはもしかして悪いことなんじゃないかな?

うん、うん。……そんなわけあるかヴォケェ! 神格化できるレベルの作品はやはり出さなければいけない。さもなくば彼らは過去にしがみつき、未来を、そして現在を貶す。それを反論できるだけの作品が常にでなければならない。欲を言えば最低年一回出てほしい。因みに神格化するにあたっての条件は偏に面白いゲームであること。だけど、それならゴーツシはどうなのって話。結論から言えばめちゃくちゃ面白かったけど神格化できるほどではない。神格化するにはある程度の独自性、そのゲームでなければならないものが欲しいと思ってる。ゴーツシはあらゆる要素を高水準で搭載し、見事完成させたが、それらは今までの集大成であるという見方がわたしとしては強い。故に神格化には至らない。

まさに諸刃の剣っすね。まぁ、前に進むなら多少のリスクを覚悟しないと、というかその程度の覚悟もできないようじゃ、その時点で終わってる。ただそれだけのこと。

良すぎることは悪いこと? だからそんなわけないと何度も。良いに過剰も何もないよ。寧ろ過剰と思わせてみろ。

この考えに染まった時点で敗北が確定か……。まぁ無難もある程度は必要だけどね。結局はバランスですよ。当たり前のことがいっつも最後に真理として思い浮かぶ。やっぱこの世界はよくできてんなぁ。

それはうつくしいけれど、とってもこわい

 

ついさっき、DLsiteにて『for elise~エリーゼのために』のページを見ていた。誰かがいつか『さよならを教えて』前にこれをプレイしろ、そう言っていた気がする。さよ教はいつか、まだ大学生になりたての頃にプレイした。存在自体は前々から知っていて、大学に入ったらすぐにプレイしようと思っていた。今思えばこれは非常に幸運であった。その頃はまだ物語に対して傍観者に徹することができていたから。物語で泣くという行為を嘲笑っていた時期だから。しかし現在、わたしの心は嵐のようにその様相を変えている。ここ最近、心は留まることを知らず、果ては自己の内に更なる嵐を発生させるに至った。まさしく凪であった数年前と違い、激しく波打つわたしの心は「狂気」という海底火山の噴火の如き横槍によって正常が遥か彼方に霧散してしまった。

今わたしがさよ教をプレイすれば、否、それすら不可能である。

物語は受け取る感情がわかっていればその感情は濃度の低いものとなるだろうか。それも否。真に「良い物語」とするならば、二度目三度目であってもその感情に相違はない。客観的事実としてわかる現象は確かに劣化が見られる。しかしその時感じる「想い」が別ものであったとは言えない。

さよ教は「凪」であったわたしですら気分を悪くせずにはいられず、到底現在のわたしに耐え得る代物ではない。

しかし、もう一人のわたしがこんなことを言う

「絶望に喘ぎ、苦しみ、救いを願うわたしの姿は、さぞかし美しいのでしょう」

と。散々主観的にわたし自身を語り、それにもかかわらず客観的に自身を見つめている。なんとも滑稽だ。この相反する感情が二律背反に陥り、間もなく生まれた。

嗜虐的かつ自己陶酔的なわたしという在り方が。

自分を虐めたいと思っているのか、自分とは即ち自分であると、分かっているのか。

絶望に打ちひしがれる自らの姿が美しいと、本気で思っているのか。

全て理解し、本気でそう思っている。ああ、嫌だ。怖いものは見たくないよ。ああ、綺麗だ。人の絶望をこんなにも近くで見ることができるなんて。

アンビヴァレント────それがわたし。わたしは救いようのない厨二病のようだ。いつかこの記事が黒歴史となってわたし自身を苦しめるとしたら? それもいい。だってさっきも言ったから。何も変わらない。変われない。

だから嫌だと言っている。『for elise』はプレイなんてしたくないんだ。

だから、すべきなんだと。やりたいんだと。

最早嵐が静まることなんてないのだと、分かってしまったね。

さようなら。