思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『冥契のルペルカリア』感想、他

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前語りについてはまぁ、気持ち悪い私のことが書いてあります。別に読まなくて大丈夫ですが情報量的にはメインです。何書いてるかわからねーと思うが((( 演劇ということでいつもより妄想が多かったのでまとめた次第。

前語り

自然に、不自然を演じる。大仰にことを語り、観客の心をこれでもかと震わせる。私は、そんな演劇が大好きだ。私のような人種、つまるところ中二病の皆様におかれましては、やはり演劇がお好きなのでしょうと存じます。はてさて本作冥契のルペルカリアではその演劇が題材とされていますが、それもやはり、私の心をひどく震わせました。そして確信めいた感情を抱いたのです。この作品は、私の心に永く、それはもう永く残るでしょうと。

あなたは演劇に何を求めますか。そこでドラマのようなものを答える人は、一生かかっても演劇の良さを知ることはできないのだろう。自然に、不自然を演じる。大仰にことを語り、観客の心をこれでもかと震わせる。きっと、理解できない。悲しいよ。とても悲しい。これは単に役を作り上げて、作中の人物を模倣するだけではいけないんだ。役者自身の心が、役に存在していなくてはいけない。

「‘‘俺はまだ生きてゐるぞ!‘‘」

そう、生きている。彼女は依然、生きている。ドラマであれば、たとえ死人がこの言葉を言おうと構わない。だが演劇であれば役者は生きていなければならない。演劇とは、そういうものだ。カメラ越しに見るか直に見るか、その程度の違いが物語としての性質の違いに大きく関わる。カメラ越しのそれは、事実模倣で構わない。いや、寧ろ模倣がいい。しかしだからこそ生者の演技を死人にも許すことができる。所詮はカメラ越し、視聴者は役者の演技を表面上でしか見ない。そうやって非日常を創り出す。

だが、直に見ればそうはいかない。否が応でもその人を見つめることとなる。役者もまた、自身を曝け出す。カリギュラは折原氷狐である。カリギュラの生を貰い受けた氷狐である。演劇とは日常の延長戦上にあり、日常の中で非日常が演出される。何もかもが日常であって、そのすべてはただの演出である。

役者は役者、役者自身。カメラ越しのそれは役者自身でなくとも、演劇のそれは役者自身である。そんなものに、果たして真実の自分と役の自分の境界線など存在しているのだろうか。

あの憎きオーディン王、ロキは彼を討たねばならぬ。悪逆非道の限りを尽くしたオーディン王、彼を討つことになんの躊躇いがあろうか。しかしロキは躊躇う。在りし日の優しき姿をこの悪逆非道の王に重ねていたのだ。そして知った。やはり、ああやはり、あなたはあの時のままだ。あなたは、唯一己の信念のみを貫きここまでやってきた。

「それでも僕は、君を恨むことはないよ。あの日、君が僕にくれた優しさは──あらゆるすべての暴力にだって、壊されることはないのだから」

理不尽なだけの暴力に比べたら、信念を貫いた暴力は、痛くもなんともない。あなたが信念を貫いてこの非道な行いをしたと言うのなら、僕は甘んじてそれを受け入れようとも。 

 さてめぐりにとってのオーディン王とは来々であったが、問題の解決は演劇を通じて行われた。激しく感情を震わせ見事役を演じきって見せたが、それはあまりに彼女自身の感情が強いものであった。まるで親の仇のようにオーディンを憎み、果てにその感情を抑えることはできなかった。

稽古中や劇中以外でのめぐりは果たしてめぐりだろうか。否、その問いはナンセンス。答えは境界線などはなからないというわけだ。抑も日常の内に非日常を演出すると言った。演劇とは日常の延長であり、役の生を貰い受けた自分に他ならない。やはりそれは日常であって、さすれば観客と役者の間に明確な差異は存在しないのではないか。

だが以前私はこう言った。舞台と観客席は絶対的な壁で仕切られており、観客は役者を冷酷な目で見つめる。だが舞台も観客席も同じ日常ならば、そこに差異など存在しないのではないか。そう、事実としてないのだ。境界線ではない絶対的な壁、それは紛れもない空気だった。自分は演者ではないのか、それとも単に台詞のない演者か。どちらでもいい。冷酷ですらない。最早見つめてすらいない。観客は役者のいる場所を非日常だと信じて疑わない。単なる認識の違い、けれどもそれはあまりに大きくて、まるで舞台が非日常のように見えてしまう。結果としてそれはカメラ越しのものと何ら変わりない印象を抱かせ、人々は興味を失う。

 非日常とは虚構であって、だからこそ人々を魅了する。演劇とは事実であって、だからこそ人々を魅了する。非日常の演劇など、存在価値はないのだ。偽物の演劇、故にそれはFAKE END。虚構世界に於いて環が誰かと結ばれることはなかった、これが正しい。

妹の愛によって創造された世界、けれどその愛は別の人間が貰い受けた。ああ朧、なんと憐れな。こんなにも環のことを愛していると言うのに!

「君がそれを求めていないことは、分かっている。だけど僕は、この想いを打ち明けないわけにはいかないんだ。気持ち悪いと思われても構わない。だから、どうか、耳を傾けて、心して聞いて欲しい」

「I love you」

環に殉じた朧の生は確かに愛に溢れていたんだろう。

さてさて、然れどもこれでは役者のアドリブが過ぎるというもの。役者は台本に従ってさえいればいい。多少のアドリブは良くてもあまりに多くては毒である。観客がしらけるぞ。ああ駄目だ。もうこの舞台は維持できない。

台本従ってさえいれば、こんなことにはならなかったというのに! どうしてだ、どうしてだ。なればこそ、この世界は愛情でできていたんだ。

だからすべては虚構、逃避、問題の先送り。何もかもが未解決のままだったんだ。だからね、バイバイ。お兄ちゃん。役者たちは次々と退場していった。悲しいね、悲しいよ。世界の果てはすぐそこなんだ。

これは月を求めて月を諦めた兄妹の物語。無理なものは無理と割り切って、さぁ前に進んでみよう! 彼らはどうだ? きっと幸せだ。

「物語に必要なのは、悲劇と涙だけなのだから」

「白髪赤目が導いてくれる」

「みんなにとっての前途多難な現実を」

正しさに殉じよう。それがきっと正解だから。

 

 

 

迫力がすごい

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演劇って、すげぇんだ。舞台って、面白いんだ。芝居って、もうやべぇの。いやもうほんと魅入ってしまったよ。演劇のパートは全てオートで進めてた。声優さんの圧巻の演技を是非とも最後まで一言一句逃さず聞きたいと思ったから。

絵と誤字

ウグイスカグラの代名詞! 崩れた絵と酷すぎる誤字!

さて今回はというと問題なかったですね。まぁイストリアと比べたら寧ろ悪いものの方が少ないですが。絵はまぁ相変わらず安定はしてなかったけどイストリアほど酷く崩れてたというのはなかった。誤字もなかったかな。多分。

感想

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全体として本作は非常に私好みであった。演劇という心揺さぶるものに加えてルクル作品の残酷な世界観。それらが織りなす美しい世界は否応なしに私を彼の世界へと誘う。やはり彼の作品は純粋に「面白い」と思わせてくれる。そういう意味では去年発売したエロゲに勝るものはなかったと感じる。

 

ところで本作、なかなか否定的な意見が多い。ざっと見ただけでもウグイスカグラで一番面白いのが本作だと言ってる人は私だけだった。つらい。人によっては割と大差付けてかみまほイストリアのほうが面白いと言ってる人もいる。なぁなぁなぁ、そこまでかよぉ!? 良かっただろ……? それとも演劇好き好き補正掛かってるだけなのか? そうなのか?

まぁ私はなんと言われようとルペルカリアが一番だと主張しますよええ。

(みんな来々推してるけど朧もかなり良いと思うんだ。I love you.をloveの重さを強く語った後に言うんだもん。これは惚れますわ)。

 

 

 

点数:89/100 文章:6/10 味:苦味、旨味少々、甘味少々