思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

時が流れ,

ふと思い出す.姉が一人暮らしを始めてからもう既に一年以上経つのだと.

唐突な話だったと思う.いきなり一人暮らしを始めると言ったのだ.とはいえ年齢的に考えてむしろ遅いと言ってもいいため,寂しいとは思ったが仕方のないことだと心を閉じた.しかし想定外だったのは母親の反応であった.そんなことは許さぬと言わんばかりの剣幕で反対したのだ.終いには泣き始め,それは手の付けようがないほどだった.つまるところ母は,姉が一人暮らしをすることにわたしが思うよりもずっと大きな寂しさを胸に抱いていた.

母は変わることを恐れているのだろうか.無論わたしはひどく,そして醜いほどに,変化を恐れている.一年以上経過した今,少し忘れていたとはいえ改めて現状を認識するとやはり気持ちの悪い寂寥感が充満している.高齢化したオタクが結婚せず虚無感を抱いているのはここにあるのだと思う.わたしは一人でいいとは露ほどにも考えていない.それどころか家族という存在を渇望している.もし,家族がいなくなってしまう未来があるのなら,それはあまりに憐れだ.だからこそ人は結婚し,家庭を求める.少なくともわたしはその認識でいる.しかしながらわたしは現状の家族を望み,その先にある新たな家族を望んでいない.今が保持されるのなら,それに越したことはないと思っているのだ.

たしかに結婚はしたい.好きと思っている人はいるし,その人と一生を添い遂げることとなるのは,どんなに素晴らしいことだろうか.だが,それ以上にわたしは今の家族を失うことを恐れている.大人になれていないというのはまったくその通りで,わたしという人間を表すには最も適切な表現だ.そしてここでふと思うことがある.なら,結婚した後は何がある? と.現状の家族を失いたくないと願う現在であるが,その苦難を乗り越えた先には果てしてなにがあるのだろうか.思うに,向かうは死,ただそれのみではないか.ここまで前提としてつがいとなった人を想定しているわけだから,当然そこには夫,もしくは妻の存在があるのだろうが,ここまでわたしが言っているのは家族である.家族とは夫婦だけのことを指しているのではなく,子もあってようやく認識が完成する.人間について,議論の余地すらなく永遠なんてものは存在し得ないのだと,わかっている.だからせめて,この幸福を保ったまま,一生を終えることを望んでもおかしくない.もちろんわたしは中途半端な脱落を望まない.怖い云々以前にないものとして認識しているからだ.これはきっと,往生なさるということなのだろう.家族に恵まれ,愛に恵まれ,子に恵まれ,果ては孫にまで邂逅するか.これを幸せと言わずなんと言うのだろうか.

これらの寂しさすべてを含め,人生足るのだろう.しかし,否,だから,と言うべきか,婚姻なき一生はどれほどの慟哭を背負うこととなろうか.外的要因,趣味や友人,そういった要素からは決して得られない家族という内的要因.それを得ぬまま死を迎えることのなんと悲しきか.子である自身は何か例外がなければ親が先に命を落とす.加えて未来永劫,結婚することがなければ内から受け取る愛をついぞ知らぬまま終えてしまう.なるほど孤独死とは,到底人の耐え得るものではないのだ.

必死になって婚活をする人々を見て,嘲笑うのはそれこそどんなに憐れな行為であっただろうか.小中高と,努力する人を嘲笑うことがどんなに無為で,愚かなことかを知ったが,なるほど次はこれか.孤独のつらさを身に染みて感じ,せめて人の温もりを得ようと,必死になるのは当然のことだった.素敵な人生だったと思えるように,努力している最中なのだ.わたしは,誰かと一生を添い遂げることができるのか.そのために,努力を要するのか.それとも,すべてを失ってこの世を去るのか.三つ目ではないことを祈るばかりである.