思考溜り

思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『Rewrite』のお話

 

拝啓Rewrite初プレイ時のあたしへ

 

あほーーーーー!!!!

 

2回目プレイ時のあたしより

 

ということで今回はRewriteをプレイした。この通り、初回ではなく2回目で、また初回と今回でまったく異なる印象を受けた。というのも、初回プレイ時は私自身Keyというメーカーに対して強い嫌悪感を抱いており、かなり目が曇っていたのだろう。もともとKeyに対しては基本的なところは面白いと感じるものの、作品全体を見た場合、テーマ的な部分、そしてよくあるKey的な「泣き」の要素に対してどうにも良い印象を抱くことができずにいた。その延長で、というときにRewriteの話をするのも少し変かもしれないが、当時の私は本作をこれまでのKeyと地続きで見ているところは若干あり、曇った目を取り払うことは当時の気持ちのままでは難しいものだ。とはいえ今回改めて当時の気持ちを考えながらプレイを進めると、意外にもその曇った目で可能な限りフラットな視点で読んでいたのではないかと思わされる。ただ、最終ルートであるTerraをプレイした段階で、正直なところこれを読んで当時の点数(75点)は低すぎるのではないかと思わざるを得なかった。そのためやはりどこか、Key作品であまり好きという気持ちを出したくないというような、悪い感情は存在していたのだろうと思う。

さて、最初に結論から述べると、正直前回のプレイがばかばかしくなるほどに良い体験であった。まず、本作全体のテーマとして、ガイア理論というものがある。その理論を軸にして、地球という星の内部にて、自己統制システムに向き合うことが主な流れとなる。

共通ルートでは主人公である天王寺瑚太郎の日常、もといトゥルーマンショー的日常が描かれている。最初こそ青春にコンプレックスを抱いている一般的な生徒のようにも思えるが、だんだんと違和感が芽生え、最終的に個別直前で事件が起こる。ここまでの経緯は個別を進めれば進めるほどよくできたものだと感心する。そしてクラスメイトは天王寺瑚太郎における日常の、ヒロインたちは非日常についての、トゥルーマンを演出していた。この日常という言葉について、過去『Scarlett』という作品にて取り上げられていたことを覚えている。『Scarlett』では日常と非日常の境目は明確な存在として描かれていた。しかし本作では明確に境界線と認識できるものは存在しなかったと感じられる。また、『Scarlett』では非日常の存在は、一応は隠されていたものの、知識そのものが劇薬となるようなことはなかった。いわば公然の秘密とも言える。一方本作の秘密は決して漏らしてはならぬ禁忌のような扱いであった。本作のオープニングの歌詞にもある、

暗い森の中

深い闇の中

それも知らずに僕らはいた

風と雲が光ると

信じたあの頃

無邪気な時には戻れない

もう二度と

この通り、『Scarlett』では最終的に主人公は「無邪気な時」に戻ったが、本作における禁忌とはまさしくここで、一度知ってしまえばもう二度と後戻りはできないという臨場感を演出していた。また、引用の前半部、本作共通ルートではいわゆる禁忌の知識を「オカルト」として一歩引いたような状態で扱うことが多かったが、森と闇は直球的、風と雲が光る、は比喩的に表現したものは見事と感じる。単純に、今まで否定されていたものが、実は真実であり、その否定していた張本人こそがその渦中にいるというのはそれだけで興奮する。

共通ルート全体では、主に日常という存在がありありと描かれている。それは後に、この日常は失われ、無邪気な時には決して戻れないということを嫌でも自覚させられる。だからこそ、殆どの個別序盤にてクラスメイトがいなくなることの寂しさを際立たせる。このときはじめて自覚するのだ、まさか自分こそがトゥルーマンであったのかと。日常における人々はトゥルーマンに寄り添ったが、非日常における人々はトゥルーマンを捨て、また日常を捨て、非日常へと身を投じてしまった。取り残されてしまった、そう感じるのはおかしくないはずだ。事実、分かり合えたと思ったその矢先に、瑚太郎を置いて皆、消えてしまったのだから。事実はどうあれ、置いてかれたという感情は覆しようがない。本作の個別では、その状態から、一人、見つけ出すという構造になっている。

本作にはガイア主義者と、ガーディアンという、主に二つの陣営が存在しているが、神戸小鳥はそのどちらにも属していなかった。ドルイドという第三勢力である。とにかく鍵を守らなければならない。何故かはわからない。けれど、小鳥はその仕事を懸命に全うした。しかしその先に希望はなく、待っていたのはただ失敗の2文字だった。本ルート自体、非常に重要な情報が散りばめられてはいるが、如何せんこの時点でのこちら側の情報量では処理が難しい。だがあとから考えてみればなるほど、たしかにこの仕事は至極重要なものであるようだ。まず、大前提として、鍵は人間という生命の滅びを望んでいない。そのうえで、地球という星の安寧を脅かすのであれば、滅びを選択せねばならない、それは限界一歩手前のような状況でしかない。また、鍵という存在は、このような状況になった場合に現れるのだろう。そのうえで本事案を見れば、鍵が出現したため、地球はなにかしら危ない状況にある、しかし危なくはあるものの、まだ引き返せる、そのような状況で滅びを受け入れるのは愚かであり、また鍵を殺し、滅びを回避するというのもまた、間違いである。ゆえにこそ鍵の守り人という存在が必要であり、その人こそが導き手になるべきなのだろう。だが、すでにガイアとガーディアンは一定の勢力を築いており、世に存在する大敵への対抗手段たる魔物、及びそれの使役者、そして超人、これらは先述の2組織がほぼ独占状態となっている。この時点でドルイドという小鳥ただ一人の陣営が敵うはずもなかった。

すべてを知っているからこそ言える話ではあるが、ガーディアンのたとえ人によって滅ぶかもしれない星であったとしても、人が滅びを無条件で受け入れる理由にはならないという主張は、それで鍵を殺すべきだと繋がるのは、これはこれで些か傲慢であるのではないかと考えていた。そしてTerra編にて江坂さんが瑚太郎に言った組織への限界を感じたことに一定の納得感を得た。なるほど、江坂さんは比較的才能の乏しい者を集めていた、そしてそれらは悔しさをばねに一定の成果を出していった。また超人であってもその中では比較的劣っており、傲慢さもない。逆に言えば現状のガーディアンに属する者の多くは傲慢であり、組織はそのようにして成り立っている。で、あるのならばこの目的に達した理由も納得ができる。力ある者がその力を目下の問題に対して最良かつ唯一のものと誤認するのはおかしなことではない。

そしてすべてが繋がったとき、小鳥の置かれた状況がいかに絶望的かは考えるまでもない。とうに理性を失ったような組織形態である両陣営と、それに挟まれる小鳥。小鳥ルートだけでは知るべくもない情報を得て、初めて小鳥の絶望を知ることができたのだ。

次、ちはやについて。彼女の話は、良くも悪くも王道であり、ある種楽に楽しむことができたが、それはルート本筋の話。ちはやには咲夜という最強の魔物がいた。彼はちはやを守るために存在し、事実として最強の魔物の名前をほしいままにしていた。彼が物語全体として非常に重要な役割を持ち続ける。

Moon編にて咲夜は現れた。そして可能性の海に溶けていった。Terra編にて、またも咲夜は現れた。今度は姿こそなかったが、咲夜だ。先立った者としてその道を進む瑚太郎への餞別を与えるために。

閑話休題。正直なところメインライターのルートではないこともあり、情報量としてはそう多くはない。だからこそルート単体で楽しむことができる(他田中ロミオ非担当ルート2つすべてに言えることだが)。段々と心を許していく咲夜、能天気な割には以外にもちゃんとしてるちはやこの二人の存在は見ているだけでも飽きないほどに楽しい。

このような楽しさは静流ルートでも同様で、実際同じライターが担当している。静流は、実は初回時一番好きなキャラクターだった。今では性格でも見た目でも朱音一択だが、当時は違った。正直この気持ちはわかる。静流は可愛いので。というのはさておき、私は、これは今も変わらないのだが、追いかけるより追いかけられる方が好きだ。特に、昔はそう多く物語を知っていたわけではないため、より新鮮に映った。

そして問題のルチア。最初に言っておくと、ルートの展開自体は面白かった。ただ、ルート入った途端にだぜ口調を多用するどこかキモくて心なしかIQも下がった気がする瑚太郎。どうして……。さておき、それはさておき、光るものはあった。

「…私は、……どこへ行けば、意味がある…?」

終盤にてルチアが瑚太郎に発した言葉だが、それまで瑚太郎はルチアの、ハルカの、その性質にしか言及をしなかった。正直これも瑚太郎がしつこすぎてかなりうんざりだったのだが、まぁ置いといて、ある目的のために作られた存在にもかかわらず、それが叶わない。瑚太郎が存在理由になるにもかかわらず、瑚太郎は一向にそれを理解しない。なんてかわいそうなルチア……。やはり、人の意味とは、愛なのだろうなぁ、と。後述するが、やはり人として、人を愛することとはすばらしい生物の営みである。

最後、朱音。ここでは千里朱音、加島桜、そしてそれよりもはるか昔から続く聖女というシステムが明らかになった。聖女とは、役職だけでなく、記憶も受け継がれる。ゆえに聖女となった者は狂う。この、連綿と続く人間の業を一身に浴びるためだ。鍵の求める良き記憶、その対極に位置する者、それが聖女という存在だ。

Moon編では加島桜が篝の消滅を目論んだ。朱音ルートのあとだとこの行動の意味がよく理解できる。ここでの篝は懸命に星の未来、それは人類の未来も含む、を思い、理論を組み立てていた。この行動は当然生を憎む聖女にとって都合がいい筈もなく、それを殺すというのは至って自然な流れだ。

その聖女というシステムの継承者として選ばれた朱音は、やはり滅びを望んだ。瑚太郎は正義を望んでいなかったとしても、この星の滅びは許容できず、結局洲崎と同じ状況になった。結果的に見て、本作の有力者の中では洲崎がもっとも良きに近い人物だったのではないかと思うことがある。彼自身生きる意志があるし、鍵に対しての扱いも、決して良いとは言えずとも、みすみす滅びを受け入れるでも、直接殺すでもない方法であった。ただ一つ、明確に足りなかったものは、愛なのだ。洲崎は加島桜が狂った段階、つまり聖女としての継承を終えてからついて行くことができなくなったとある。ある種見限ったとも言えるこのとき、洲崎は加島桜に対する愛を失っていたと考えている。やはり愛、愛が必要だ。

 

 

 

ではここから本格的にMoon編の話をする。ここで主に提示された情報は篝という存在が理論を組み立てていたこと、気が遠くなるような時間、瑚太郎は篝を隣で見守っていたこと、篝は少しずつ瑚太郎に心を開いたこと、篝の組み立てていた理論は共通、個別にて起きた失敗を起こさない、地球の未来を見出す理論であること、それは瑚太郎によって完成のきっかけがもたらされたこと。

瑚太郎は、篝が身を削ってまで星の未来を考えていたことを長い年月とともに知った。そんな瑚太郎に篝は、少なからず好意を抱いていた。Moonで瑚太郎と篝は確かに命を紡いだ。いわば本作を形成する良き記憶の根幹であるのだろうか。この良い記憶について、何度も滅びを免れるために必要であることは語られたが、具体的に何を指すのかまでは言及されていない。ただわかるのは、生を渇望したこと、そして篝を愛していたこと、だろうか。月並みな感想になってしまうのがなんとも口惜しいが、ガイア理論を軸にした生命を総合的に描いた作品だからこそ、最終的に良き記憶となるのはここに帰結するのではないだろうか。ガイア理論において地球は一個の生命体として生命維持活動を行う。ならばその地に住まう生命にとって重要なのはやはり生の営みだろう。自身の生命維持のために出現した鍵を消滅させてしまうのは、当然良きに反することであるし、また、生きる意志のない者もまた、良きに反する。なればこそ、双方を摘み取り、個を愛し、懸命に生きようとした天王寺瑚太郎の記憶は良いものであるのだ。単純な話、体内に存在する悪いものを除去するためにある鍵に、悪意を加えるのであれば、それは悪しきに属する記憶なのだ。

Terraで瑚太郎が辿った軌跡は、たしかにこれまでの本質が受け継がれており、アークナイツという作品にて語られた、「記憶があなた自身を形作るものじゃない」という言葉が、とてもよく響く。Terraでの瑚太郎に過去、共通や個別、そしてMoon編での出来事を本質的に記憶はしていなかったが、瑚太郎の行動はまさしく彼らしいものであり、各個別で彼は一人の少女を救い、場合によっては他のものを捨てた。何故ならばその人に対する感情がもっとも強く、優先されなければならないからだ。Terra編における瑚太郎の行動は本質的にこれと何ら変わりなく、Moonで過ごした永きにわたる篝との記憶という存在に刻み付けられたものこそがTerra編の瑚太郎を形作っている。結果として生まれたのは篝を愛したこと。鍵と人間の関係として、地球の未来を切り開いたことも事実だが、それは実質的に無関係でしかない。目的に重なっているのだから瑚太郎にとっては遂行すべき願いとなる。

しかし、そうであるなら、やはり知性とは、理性とは、いかに扱いの難しいものであるのだろうか。本作における鍵の出現理由は、すべて人間に関するものであり、人間がこの星のエネルギーを使い果たすからだという。しかし事実として人間はこの星に誕生しており、その存在を否定するのはおかしな話である。ゆえに、理性的に、本能をもってして、理性を抑えることができるのなら、それはとても素晴らしいことなのではないだろうか。人間は人である前に動物であり、動物である以上に人間なのだから、やはりその理性を否定してはいけない。

総合的に、本作における地球とは一つの生命体であるが、それは構造的立場をとりながら、人、心的存在への言及を決して欠かすことはなかった。本作の最序盤、瑚太郎のモノローグではこのようなことを言っていた。

ある時、何も持っていないことに気付いた。

幸せが詰まっていると持っていたポケットは、実は空っぽだった。

そこに何を詰める努力もしてこなかったんだから、当然だ。

でも俺は、そんなことさえわからなかった。

俺の人生は、ひどく薄っぺらいものだった。

未だに俺は手ぶらのままで

なのに何をすればいいのかさえ、見えていなかった。

空回りばかりしていたんだ…

本作における共通の役割は、主に日常であるが、その日常とは瑚太郎が強く求めていた日常であるのかもしれない。Terra編における瑚太郎の過去をどこまで、本編共通到達前に瑚太郎が消えてしまうため、共通以前の過去とすべきかは曖昧にしておくが、少なくとも瑚太郎が小鳥たちとは年齢が違うこと、過去ガーディアンに在籍していたこと、これらは間違いない。そしてその過程で、瑚太郎は周囲へなじめないということを殊更に呟いている。加えて両親との思想の乖離、果てはガーディアンとして家を出た。この一連の人生において瑚太郎が、先に引用したモノローグを否定できるようなことが存在するだろうか。このことを考えたうえで共通後半にてオカルト研究部活動停止への淡白さを責める瑚太郎の姿がよぎる。切実な、この想いを受け止めてくれる人間が欲しかったのだ。

さて、ここでTerra編での瑚太郎はどうであったか。このときの瑚太郎はすでに潜在的に篝という大切な記憶を持ち合わせていた。そしてこの地で、篝と出会った。欠けていったピースが埋まるように、共通以前の瑚太郎の空虚な空白が埋まっていく。今までの瑚太郎の生き方は、ある種それまでに拾うことのできなかった大切なものを拾っていくような生き方だった。それが欲しかったから、ただ求めた。しかし今では、自分の持っているものを生かし、ポケットに詰める幸せを求めて、自身の行動に自覚的で、ただ眼前の目的に明確な意志をもって進んだ。

先述の通り、本作におけるもっとも大きな要素はガイア理論をはじめとした、地球における構造的立場であるが、当時に、やはり人間という存在は非常に重要である。地球全体の話をするのであれば、人間や自然以外にも、人間以外の生き物に対しての言及も必要だろう。しかし本作ではそこについての言及はない。一貫して、自然と人の話に完結している。これに対する私の結論は、「理性」だけが、この地を害し得る、と考える。

そしてその害し得る可能性は、同時に未来も生む。つまらない話だが、平和を求め続けるのであれば理性なき生物だけが存在すればよく、理性などという乱数は必要ない。だが事実としてこの地には理性を持つ人間が存在し、少なくとも未来なきまでにこの地を害さない限り乱数の塊である人間はこの地の一部として存在することができる。鍵は人の未来を望んでいた。ならば、これこそがガイアの意志に他ならないのだ。

 

 

点数:92/100(初回点数:75) 文章:7/10