思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『Forest』感想のようなもの

曰く、あらゆる虚構の頂点であると。私はこの言葉がとても印象に残り、此度プレイするに至った。多分、この言葉を聞かなければプレイすることはなかったのだと思う。結果的に私はプレイしてよかったと心から思っている。

まぁ、以下の文章は感想と言えば感想ですが、そこに感想というものを見出せるのなら見出してごらんなさい。

 

 

 

良かった、ええ良かったですとも。虚構の頂点、成程確かに、頂点とはかくあるのだろう。私はある意味で頂点を頂点たり得ると思い、同時にさはあり得ぬとも言うだろう。頂点とは頂点であって、面白いとはまた違うのだと思う。無論、本作が面白くなかったのかと問われればとても面白かった、それ以外にこたえる余地はない。本作は物語的物語、虚構的虚構、それは物語、虚構、そのものであって、それは物語だった。しかしながら大衆性というものを些か欠如しているとも思える。それは名誉であって、決して否定されるものではないが、私という存在は大衆性に心を攫われた現代人なのでその優位性に逆らうことができない。

だが大衆性に心を攫われたとはいえ、その本質を眺めることを諦めたかと言われればそうではなく。小説より漫画のほうが好き。というか小説は嫌い。そのような感情に非ず、小説と漫画、二つが置いてあったならば私は多くの場合漫画に飛びつくであろうだけである。そもそも私は根本的に文字の奴隷としてこの世界に存在しており、その隷属性は他の者よりも比較的高いと思っている。なればこそ大衆性の欠如はもとより望むところであり、己が自尊心と照らし合わせていかにも素晴らしき。

そこに虚構への愛はあったのか、ないと言ってしまうことも可能ではある。何故ならその自尊心とは人間的かつ気色の悪いもので、承認欲求的だ。ああ、愚者よ、虚構をそのために使うのはやめてほしい。私とて気分の良いものではないのだ。

違う、違うと。私は確かにその存在を愛している。違うのだ、あなたの考える高尚さと、下賤さ、それらは両立し得るものなのだ。確かに私は下賤なる存在に他ならぬが、高尚な存在へのあこがれはまさしく存在しているし、一歩でもいい、そこに近づくことができるのなら絶頂してしまうだろう。

しかし、しかし、私は俗の人間、聖とは何があっても交わらず、どう足掻こうが私は俗だ。つまるところあれにはやはり大衆性が存在していて、俗物だったのだ。さもなくば精神体な交わりを観測されることは断じてなく、俗物的虚構概念に落とし込められた単なる俗物だ。

きっと、眩しくも見えて窮屈にも見えて真っ暗にも見えた。あまりに俗物的で、そこに私は俗物性を見つけることがついぞできなかったのかもしれない。虚構とは本来俗物の権化であってしかるべきで、それこそ聖との交わりなど観測される筈もない。一体何を勘違いしていたのだろうか。先ず最初に聞いていたのではないか、虚構の頂点、それはいかにも俗物的な名ではないのか。故に目新しさというものははなから存在する必要はなく、既に完成されていたのだ。

私の心は一体どこにある? 大衆性の中に。だから大衆性の権化たるに惹かれるのだ。物語的物語、虚構的虚構、それらは私の心を強く引っ張る、しかし虚構とは破壊されるものであると相場が決まっている。果たして破壊のその先に待っていたのは更なる虚構だった。しかしながらそれは虚構的ではなくただの虚構だったのだ。俗物的度合は若干薄れたのだろうが、以前にも増した大衆性を纏ったそれはやはり面白いものであったが虚構的虚構があっての虚構であって単体での力は大したものではないのだろう。

だから何度も言っている通りこれは虚構に虚構を重ねた虚構的虚構であり、頂点たる所以はそこにあったのだ。なるほどそれを彩る香ばしいエッセンス、きっとお口に合うでしょう。飽く迄素材、味付けは少しで構わない。素晴らしき、それは君臨するに相応しい佇まいですべてを見下ろすのだ。

聖の皮を被った、そう私は思った。ただの俗物になんという過度な評価であろうか! しかしこれが最終的な思いで、大衆性に欠けた俗物の末路というわけだ。

 

 

点数:99/100 文章:7/10 味:薄味