思考溜り

その名の通り、ここには思考が溜る。どんなに崇高でも、下賤でも、わたしの思考の全てはここに溜る。

『穢翼のユースティア』についての長ったらしい報告

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はじめに

3回目、だったと思う。この作品をプレイしたのは。1回目が一昨年、2回目が去年、そして3回目が今回だ。いずれの時も素晴らしく、また果てを知らぬ虚脱感に襲われた。私にとってこの作品は一生心に残り続けるものであると確信している。私的エロゲ史に残る傑作、今回は私がそう思うが所以を少しでも多く伝えられたらと思う。まぁ基本的に思うがままを書いているので妄想が多分に含まれている可能性あり。そんな大層な考察やらをしているわけではないので。

因みに記事の中での表現の多くは作中登場人物たちが実際に言った言葉からとっているので、言葉自体にはそれなりに説得力はあるかと。

登場人物について

フィオネ

彼女こそまさしく人形だ。いや、厳密には違う。人形となることで現実から目を背けていた。父と兄は優秀で、尚且つ非常に正義感の強い人物だった。そんな二人の背中を追ってフィオネは育った。自分も二人のように優秀な人間になるんだ、強い人間になるんだ、と。そこは正当性で溢れている。だからこそ、そこを抜け出すことは間違いを意味していた。間違ったことをしてはいけない。それは火を見るよりも明らか。力を持つ者ならば尚更だ。

「我々は正しくなければならない組織なのだ」

「権限が大きければ大きいほど、過ちは許されない」

フィオネは疑わなかった。自らの行いが正しいということを、それに追従する仲間もみな例外なく正しいということを。疑ってはいけなかった。疑うことは仲間を信じていないということ。それは自分を、そして父と兄すらも信じられていないということだ。羽狩りの仕事はフィオネにとって運命であり、自らを縛る鎖であり、呪いであった。

だから兄から治癒院の真実を伝えられた時は絶望した。今まで正しいと信じていた、そう信じることが正しいと思っていた治癒院の実態は人体実験を行う施設だった。今までの自分を真っ向から否定されたような気分だろう。だからこそ、フィオネはカイムという新しい依存先を求めた。自分という存在を否定された、しかしフィオネにもカイムと接してるうちにカイムという一人の人間に惹かれていった。依存と呼ぶにはあまりに業の深いフィオネの生き方は、寄生という最早人の体を成していないともとれるこの表現が最も相応しかった。それを繰り返していては、それこそ人形同然、それどころか自らの意思を否定しながら人形として生きているという意味ではこちらのほうが余程酷い。なまじ知ってしまったカイムには、フィオネをこのままにしておくなんてことはできなかった。故に、全てを否定した。フィオネが生きた証を、フィオネの意思を利用して、否定した。そうすることでフィオネは寄生先を失った。カイムは願った、次会った時彼女がどうか、どうか強い人でありますように…と。

エリス

どんな人間にも生まれてきた意味があるのなら

私はきっと人間じゃないってことなんだ

カイムはエリスを自らの業の象徴とした。彼女の両親を殺したことに露ばかりの罪悪感を覚え、間もなく娼館へ売られてきたエリスを身請けした。エリスには依存先が必要だった。自由を欲さず、そのために束縛を求めた。人形であることを選択した。そのエリスに、カイムはただひたすらに自由に生きることを望んだ。しかしこれは、エリスをただ苦しめるだけだった。エリスは自らの意思で、自由をもってして、束縛を選択した。これでは自由の在り方を否定され、別の自由を見つけろと言われているようなものだ。だがエリスにはそれができなかった。選択し続けることを恐れた。ただ一時の選択ではなく、選択を続ける真の意味での自由を。だからこそ、カイムはその在り方を否定し続けた。こうしていれば、いつかはエリスも気付いてくれると信じて。それは自由を強制することに他ならなかったが、それが正義であると確信しているカイムには気付くことはできなかった。そうは言っても、結局はその選択がエリスにとって良いものだった。エリスは人間だ。紛れもなく、自由に生きる人間だ。どうしてそれが、悪いことだなどと言われようか。

コレット

 彼女はその生涯を天使に捧げ、信仰に従い決して嘘は言わなかった。確固たる意志を以て聖女の任に就いていた。思えばカイムに関して、全ての始まりは彼女だった。もし聖域にカイムを呼ぶことがなければカイムはずっと牢獄で停滞したままだったのかもしれない。カイムに大きな変化を与え、またカイムに大きな変化を与えられた。

彼女もまた、ただの人間であり、自らの置かれた状況に悩みもした。しかし決して自らの信仰を偽ることはしなかった。今際にて、一度の間違いはあったものの、彼女の生涯は素晴らしく誇れるものであった。

リシア

初めのリシアに対する印象は「餓鬼」という他なかった。王として成長するどころか、それを放棄して悪戯をして回る始末。それは誰の目にも良い王になるお方だとは映らなかっただろう。リシアにもリシアなりの考えがあった。しかしあまりに考えが足りない。時期王であるにもかかわらずやってくる人間の言葉を信じて疑わず、全てを鵜呑みにした。彼女の周りには嘘をつく者などいない。まどろっこしい謀略も存在しない。薄い表面の皮だけだが、そこには平和があった。だから、カイムの存在はとても刺激的であった。彼は執政公の言葉を悉く否定し、彼女の無知を説いた。平和である筈の世界が、一瞬にして崩壊した。自分に言い寄ってくる者たちは悉く嘘をつき、謀略を巡らせた。牢獄の惨状は凄まじく、王城にて育ったリシアには到底受け入れられぬものだった。王城ではたった一人の死に対しても篤い弔いがあるのだろうが、牢獄には人間の死程度のものに価値はない。ただの一銭も。それをリシアは駄目だと判断した。即刻対処せねばならぬ問題であると。しかし己に力がない。故に諦めた。このありようを知ってなお、諦めた。だがそれは罪だ。無知故の無為は許されても、知っての無為は許されることではない。そう、許されることではない。それをカイムが許すなんてことはあり得なかった。おそらく、このころからリシアはカイムを好いていたのだろう。最も信頼していたと言ってもいい。つまり、今まで執政公がいた場所にいるということだ。ではカイムはどうやってその場を勝ち取ったか、それは執政公の嘘を暴いたから。だからこそ、リシアはカイムの嘘に異常なまでの嫌悪感を示した。ただ、誰かを信じて、頼りにしたかった。優しくしてほしかった。望んでこんな身分に生まれたわけじゃない。自分にだって人並みの自由が欲しかった。それだけの願いがどうして叶わないのだろう。だがその言葉はカイムの前では無意味だった。牢獄でだって、そんなのは同じだから。寧ろ、牢獄のほうが何倍も酷い。それなのに、人として普通以上の、それもかなり裕福な生活をしているリシアがどうして自らの出生を嘆くのだろうか。勿論、リシアの不安要素はそれだけではなかった。前国王、父の存在だ。執政公曰く、病床で、人と会うことすら難しいとのこと。リシアもここまでくれば馬鹿じゃない。これが嘘だということはわかっている。だが、それとは別に、恐れがあった。それは父に対する幻想だった。父は厳しい人だった。すべての国民の父たれと言った。そうである以上、特定の個人に肩入れしてはいけないということだ。それは娘であるリシアに対しても同様だった。いつも厳しく接するヴァリアスですら、その姿が哀れであると思うほどには。しかし、ついぞ前国王は生涯その態度を改めることはなかった。そのことが、リシアには何にも代えがたい苦痛だった。記憶を捏造し、厳しかった父の記憶を心の奥深くに閉じ込めたリシア。結果としてリシアは父に会わなかった。だが、同時に確かなものもあった。どんなに厳しい態度をとっていたとしても、父は自分を愛していたということ。花冠は、確かに父に届いていたということ。

ジー

カイムの長年の友人であるジーク。彼は不蝕金鎖の頭だ。それはつまり牢獄という、もはや独立した一つの国と言ってもいい場所の長だ。リシアに大いなる責任が伴うように、彼にも牢獄の長として大いなる責任が伴った。考えるべくは都市に非ず、牢獄であり、たとえこの都市が滅びようとも牢獄を見捨てるという選択はあり得なかった。情に絆されてはならない。ただ一度だけ、それはあったものの、後にも先にもそれだけだった。

カイムに、情を掛けることはなかった。不仲であったわけではない、寧ろ双方にとって生涯最高の友として記憶され続けるだろう。生涯の友人だから、どんなことでも言えた。どんな変化でも受け入れられた。ただ一つ、カイムが見せたあまりに惨めな姿を除いては。ジークはカイムが最終的に敵対しても悲しくはないと言った。その選択をカイムが選んだと言うのなら、良いことですらあった。しかしそうではなかった。ただ脳死的に生きるカイムは、ただ哀れで、悲しく、けれどそれは牢獄の乞食か、それ以下の存在でしかない。飽く迄ジークは牢獄の長だ。牢獄の長として、何をするかを選んだ。

今思うと、それでもやはりカイムは自分の愚かさに気付いてくれると分かっていたのかもしれない。都市が堕ち、戦争が終わったころ、ジークはふと呟いた。

誰か、率直な意見を言ってくれる相棒が欲しいところだが……

「カイムの野郎……運良く生き残ってりゃいいが」

私はこの言葉が、先に述べたことに繋がるのではないかと思う。

ルキウス

正しさと妥当性の権化とも言うべき彼の意思は、最後まで貫かれた。決して情に絆されず、けれど悲しい彼の人生は、システィナという一人の人間だけが支えであった。互いの秘密を打ち明けたあの日から、彼らは死ぬまで同じ道を進もうと誓ったのだ。ルキウスの心はわからない。一つわかることがあるとすれば、心を失っていたわけではないということだろう。どんなに平気そうな顔で人を殺していたとしても、何も感じないわけがない。だが、いちいちそんな感傷に浸っていては前に進むことはできない。だからこそ、カイムという存在には固執せずにはいられなかった。かつて袂を別った兄弟、グラン・フォルテの時に一時、ただ一時だけ道が重なろうとしていた。それは迷いか、極限状態の危機感が本心を暴いたのか、いずれにせよ道が重なりかけた。しかしグラン・フォルテで消えた命と同様、その意思も儚く消えてしまった。酷く苦い後味だけを残して。

アイムは弟を心から愛していた。ルキウスはカイムを信頼できる優秀な仲間だと思っていた。アイムとして、ルキウスとして彼はカイムを手元に置くことを望んだ。だが彼はリシアを王に据え、目的を果たした時すでにアイムという人間は捨てていた。つまりその時点で彼は、ルキウスはカイムをカイムとしてしか見ていなかった。愛する弟ではなく、ただの部下として。それも武装蜂起が終わってしまった今、腕を買っていたカイムの存在意義は途端に薄れた。もはやただの駒でしかなくなってしまった。

リシアの国王即位後のカイムはあまりに惨めだった。正当性に囚われ、自らの行動の正当性を問い、目を瞑ったまま道を進んだ。ルキウスにはそれがあまりにつらかった。消しきれなかったアイムの残滓が彼の心を痛める。だがそれもいつしか消えた。初めは行っていたティアの実験に関してカイムの意思確認を、ついに無視した。もしかすると彼は、気付いてほしかったのかもしれない。カイム自身の惨めさを。なるほどつまり、彼はアイムを殺してはいなかった。心の奥にしまい込んだだけだった。カイムに教えてあげたかった、選択することの崇高さを、難しさを。正しさに囚われてはいけないと。結局カイムが気付いたのは最後だった。それも自分だけでは気付くことができなかった。けれど、それでもアイムはうれしかった。愛した弟が、選択することを選んでくれたことが。

カイム

ずっと兄のようになりたかったのかもしれない。兄は聡明な人物だった。基本カイムにできることはできたし、勿論カイムにできないこともできた。劣等感を抱いていた。それはそうだ。何せ昔から出来のいい兄と比べられてきたのだ。それでも、カイムは自分を失わないように心を保っていた。それは母の言った言葉と、兄が去り際に言った言葉の存在が大きかった。

「人には、必ず生まれてきた意味があるの」

「人生で一番大切なことは、自分の人生を精一杯生きて、生まれてきた意味を見つけることよ」

 

「お前は、俺の分まで生きてくれ」

「俺の分まで生きて、立派な人間になるんだ・・・・・・約束してくれ」

作中の登場人物たちは、それぞれがそれぞれの呪いを背負っていた。ならばカイムにとっての呪いとは、この言葉だった。必ず意味がある、そう、どんな人間にも必ず意味があるとカイムは信じている。どんなに偉い貴族様であろうと、どんなに貧しい乞食だろうと。だからちょっと悟ったような顔で人生を諦めた人間は大嫌いだったし、そんな人間には意味を見つけさせてやりたくなった。作中ではエリスがその最たる例だろう。いっちょ前に悟ったような顔をして、人生を諦めているとカイムには見えた。だから悉く構ったし、突き放した。エリスからすれば大迷惑でも、カイムはそれがいつか正しい方向に向かうと信じていた。きっと、カイムにとっての立派な人間とは、かわいそうな人間を、どうにかそうでなくしてやることだったのかもしれない。だから行く先々で出会ったヒロイン達には渋々言いながらも結局構った。そして道を示した。しかしこれでは生きる意味など見つけられていないも同然だった。他人の生きる意味を見つけることが自分の生きる意味などとは、あまりに寂しいではないか。故にルキウスはそんなカイムに構ったし、心配もした。成長、そう、成長したと言えるのだろうか。立派な人間になれたのだろうか。おそらくルキウスにはそう思えなかったからカイムに構ったのだろう。カイムも時々あの日のアイムを思い出しているように、どこか突っかかりがあった。だがカイムは停滞を望んでいた。カイムは何か言うたびに、二言目には牢獄では~と言った。そんなカイムにコレットは余程牢獄がお好きなようですねと言った。今できていないことを、恰も自分が牢獄にいるからだと言っているカイムを咎めた。今すぐにでも、彼は牢獄を出ることが可能だった。しかししなかった。勿論長く住んだ牢獄に愛着がわいているというのもあるのだろう。だがもっと、根本的な、カイムが無意識のうちに思ってしまっていること、言い訳にしたい、その程度のことだった。

成長したくなかったわけではない。ただ、カイムにはその方法がわからなかった。それを咎められるのも嫌だった。だから何かにつけて自分が牢獄の民であることを強調したし、牢獄から出ようともしなかった。その意思を覆した何かがあったとすれば、それはやはりティアの存在だったのだろう。あの日ティアを拾って以来、なんだかんだでずっと一緒にいた。ティアはカイムを慕い、カイムもその好意にをわざわざ無下にしようとはしなかった。結局、この物語に於いてカイムの行動理念はティアにあった。

正義

1人を殺して9人を助けるか、9人を殺して1人を助けるか、どちらを‘‘選ぶべき‘‘かは誰でもわかる。しかしどちらを‘‘選びたい‘‘かは人それぞれだ。正義とは義であって、決して利ではない。正義に従うのは楽だ。何せ絶対的な正当性がある。だから否定するのは難しい。特に、「意思」のない人間には到底不可能なことだ。正当性を破るには正当性は使えない。ならばどうするか。それが「意思」、言い換えれば、我儘である。つまり正当な選択を否定するには、不当な選択をするしかないということだ。

本作に於いて、正当な選択とは都市の延命であり、それ以外は全て間違った選択でしかない。幸福か否かは全く無意味な問いだ。それは情であって、絆しであって、邪魔な存在だからだ。その場に絶対的な正当性など、どうして見つけることができようか。

価値観と現実

ノーヴァス・アイテルの住民の持つ価値観は、概ね我々──主に不明瞭なものに対する不信──と同じである。当たり前のことは当り前のように語られるし、なんなら語られないことも少なくはない。そしてそれらはあまりに当たり前であるが故に、疑う余地はない。例えば今我々が立っている地球、例外はあれど‘‘一般人‘‘ならば、球体であることは疑いようのない真実であろう(作中学者等がこの都市について疑問に思うというような描写はなかったため、こちらもそう合わせる)。本作でも同様にこの都市が浮いていることには誰も疑いの目を向けない。ここで面白いのが、最初ティアが光を発した時誰も相手にせず、カイムの頭がおかしくなってしまったと考えたこと。我々の認識からすると、聖女という一人の人間が都市を浮かせている、正確には聖女が天使に祈りを捧げることで天使が都市を浮かせているという事実自体おかしなものだ。しかし彼らはそんなことは微塵も思わない。なぜならそれが普通であるから。普通のことにわざわざ言及する人はいないだろう。これが彼らと我々の最も大きな違いだろう。だから人間が発光したと言っても誰も信じない。なぜならそれが普通ではないから。あり得ないことだから。この、我々の認識と照らし合わせた場合の彼らの価値観は本作で終始付きまとうこととなる。

次に大きく問題となるのが、聖女にこの都市を浮かせてはいないと打ち明けられた時だ。初め、カイムは俄かに信じることはできなかった。信じられる筈もない。今まで当たり前と思い生活してきたのだから。冷静に考えればおかしな話なのだ。もしこの話が本当なら、聖女とはいったい何なのか。まず人間の成せる業ではない。だが聖女はもカイムやほかの人々と同じ人間だ。全く、なんの違いもなく、人間なのだ。それでも聖女がこの都市を浮かせていると言うのか、否、そんなことはやはりあり得ない。にもかかわらず、聖女が都市を浮かせていないことを「おかしい」と言った。それこそおかしな話だ。先刻も述べた通り聖女はただの人間だ。それがどうして大きな都市を浮かすなどという超常現象的能力を持っていると言うのか。ここで注目したいのが、こんなにも整合性に欠けると思わせる材料が揃っているのに、受け入れるために大きな苦悩と時間を要したこと。この描写を違和感なく描き切ったことは称賛に値する。これはまさにその人の価値観、考え方、育ち、あらゆるものを読者に認識させたうえで、まこと丁寧な心理描写を描くことで初めて完成するものだと感じる。

最後に都市を浮かせている存在が、天使だったということが判明した時のことだ。カイムは開いた口がふさがらないほどに驚いた。・・・そう、驚いたのだ。信じられず感情を振り回さずに、ただ驚愕した。それはカイムの中で天使がこの都市を浮かせているという事実を簡単に受け入れることができたことを意味する。何故か、それはカイムの中で変化が生じたから。価値観の変化が。価値観なんてものは簡単に変えることができる。知ってしまえばいいのだ。知れば知るだけ世界が広がる。言い換えれば、自由という束縛が、強くなる。自由は使いようだ。一見良いものだが、上手に使うことができないのなら束縛よりも強く自らの人生を縛り上げることとなる。特に、正当性には気を付けることだ。これは一見良いものに見えて、その実非常に厄介だ。くれぐれも、囚われてはならない。

 

この都市は、聖女様が天使に願いを捧げて浮いていると伝承で伝えられている。これを見ればわかる通り、都市を浮かせているのは聖女ではなく天使だ。昔から天使がこの都市を浮かせていると伝承によって伝えられてきた。民衆はみなこの伝承を信じ、生きてきた。つまりこの都市を浮かせている存在は天使だということは民衆にとって常識だったはずなのだ。なぜなら民衆はこの伝承を信じているから。伝承は常識に組み込まれていると言っても差し支えない。しかしカイムが実際にこの事実を知ったとき、言葉が出ないほどに驚いた。加えて、ジークに話そうとしても信じてもらえるわけがないと思いやめた。なぜだろう。民衆はみな伝承を信じている。その証拠にこの都市は浮いているし、都市が崩落した時は当然のように聖女に対して怒りをぶつけた。無論、当のジークも聖女に怒りをぶつけた民衆の一人だ。なのにどうしてそう思い至ったのか、それは本能的に天使なんて存在するわけがないと思い込んでいたから。都市が浮いている、それは常識だ。なぜならずっと前から目の前で起こり続けているのだから。聖女が都市を浮かせている、それも当たり前だ。そうでなければなぜ都市は浮いている? ならば天使が浮かせているのだ。しかし民衆はきっとこう言うのだ。「馬鹿げたことを言うな」と。結局のところ天使という存在があまりに認識の外にあったために、信じることができなかった。先刻も述べた通り、彼らの言う常識は基本的に我々と変わらない。実際現実で天使がこの世界を支えています、などと言ったら一蹴されてしまう。それどころか危ない人と思われてしまうかもしれない。この現実に於いても100パーセント否定しきることはできないというのに。

最終章について

カイムが、これまで出会った人たちに言ってきたことが全て自分に返ってきた。

終始カイムは選択の崇高さとその正当性について説いてきた。そうしてフィオネを人足らしめ、エリスを自由足らしめ、コレットをただの人足らしめ、リシアを王足らしめた。

愚かな道を行く彼女らをその先へは進ませまいと。それは少なくとも彼女らから見ればカイムは立派で賢く見えただろう。事実としてカイムは正しい行動をしていたのだから。

知るということは、果たして良いことなのだろうか。真実を知らなくてもどうせ知らないことにさえ知らぬのだから、何も変わりはしない。たとえ世界に悍ましい真実が隠されていようと、知らなければそれまでだ。と、誰もが思う。しかし知った後には必ず「知るべきだった」「知ってよかった」と言う。多くの場合、そこに後悔と葛藤を伴って。どちらが幸せか、と問われれば、客観的に見て圧倒的に前者が幸せだ。なのに人は後者を選ぶ。3度目の聖女処刑の日、ルキウスは言った。

「知ることで世界は変わる……良くも悪くもな」

「無知ゆえの無為は許されると思う」

「だが、知った上での無為は罪だ」

知ればそれ相応の責任が伴い、後戻りもできない。それでもやはり人は後者を選ぶ。なぜなら知りたいからだ。自分が生まれ落ちたこの世界が、どうやって存在しているのか。何故、存在しているのか。それを知りたくて堪らない。

ルキウスもカイムも目指す場所は同じだった。世界の真実に迫る、その根源的欲求に従って行動した。しかし、どこで差がついたのか、彼らの道は悲しいほどに交わらなかった。カイムは自らにのしかかる重責にただひたすら苦しんだ。ルキウスはただ苦しむだけで何も行動しないカイムにひたすら失望した。自分の出自を打ち明けたあの日、ルキウスはカイムに問うた。立派な人間になれたのか、と。カイムは答えなかった。答えを持ち合わせていなかった。立派かどうか、それはもはや自分でもわからない。正しいことをしてきたつもりだ。既に4人の女の人生を救ってもいる。今やっていることだって都市を救うだなんていう大層なものだ。きっと正しい、正しい筈だ。なのに、どうしてか、心がどこか虚しかった。それは正しいことをやっていても、心から正しいと‘‘思える‘‘ことをやっているわけではなかったからだ。正当性の牢獄に囚われたカイムにはそれに気づくことができない。ようやく自分の意見を言ったかと思えばただ喚き散らかすのみ。つくづく、この時のルキウスの言葉は刺さる。

「多くの人間が、今、自分の死を目前に生きている」

「戦場に立つ者も、そうでない者もだ」

「そんな中、お前は自分の行動も決められない」

「理想でも、理屈でも、実利でも、感情でも、優先するものなど何でもよい」

「だが、選択を放棄するのは気に入らないな」

 

「結局、見つけられなかった」

「お前が何を大切にする人間なのか、私にはわからなかったのだ」

「ころころと主張を変え、それなりの正論を吐きながら、生きていく」

「お前は頭がいいし、発言や判断は妥当なことが多い」

「だから、誰もお前の行動を責めないだろう」

 

「お前には、中身がないのだよ」

「何のために生まれてきたんだ?」

「私は、お前と話をしながら、いつもこう尋ねられている気がしていた」

「『自分の行動はこれで正しいですか?』とな」

「しかも、何度も何度も追認を迫る」

「お前は自由なのだ、好きにすればいいではないか」

実際最終章でのカイムはそれこそ人形のようであった。散々悩んで、喚いて、結局最後はルキウスの言うことに従う。だからフィオネはカイムの言葉が貴族のようだと言い、リシアはカイムを犬だと言った。そんなカイムを見て、ジークは悲しんだ。長年の友が、貴族のように、犬のように、ただ誰かの言葉に従っているだけの存在になり果てたことに。

「そうだ、お前は変わったよ」

「これっぽっちも自分の足で立ててない」

「俺は、お前が変わることも敵対することも、悲しくはない」

「ただ悲しいのは、お前が自分の足をなくしちまったことだよ」

「こんな時だから、すると決めたことをするの」

「もうすぐ死ぬかもって時に、先のこととか関係ないし」

「だって、後悔なんてしたくないから」

初めは響かなかった。理解できなかった。否定した。それは正しくないから。選んではいけない選択しだから。それを変えたのは、最愛の恋人の存在だった。子供のように扱っていたティアが、いつしか成長し、生意気にもカイムのことを、そしてこの都市を救うと言った。だが、冷静に考えて、何故ティアがこの都市を救う必要があるのだろう。たった一人の少女に、どうしてこの世界を任せるのだろう。そう思った時、今までの友人たちの言葉が心の奥底に染み渡った。

カイムの選択はまったく正しくない。それでもルキウスは、自分を止めに来たカイムを見たとき嬉しかった。アイムが愛していたカイムが、ようやく自分の道を決め、眼前に立ちはだかった。袂を別ち、敵対した兄弟。しかし不思議と嫌な気持ちはなかった。カイムが自分の意思でそこに立っていると決めたのなら、それこそ本望だ。

いつかカイムは言った。この世界に残った人間が、カイムとルキウスだけになったとしたら、どうするか、と。ルキウスは言った。状況による、と。これが、正しさと妥当性に基づいた判断かどうかはわからない。けれど、もし希望を抱いていいのなら、落石からカイムを救った時の気持ちはそれだけではなかった、そう思いたい。それは死の直前、ほんの一瞬ではあるが、カイムとアイム、二人の兄弟が同じ目的を目指して進んだ最初で最後の時だ。この先どんな結果が待っていようと、その喜びだけは消えない筈だ。

この物語が、カイムにとってどのようなものだったのか。私はきっと幸せだったと願う。そう思いたい。そうでなくば、あまりに救いがなさすぎる。最後に聞こえたティアの声。これが幻聴だったと言う人もいるが、きっとそれはない。コレットに、イレーヌの声が聞こえていたように、きっとティアの声はカイムの耳に、確かな音をもって届いたはずだから。

最後に

この作品の一番面白いところと言えば、作中の登場人物の発言が誰か(主にカイム)に返ってきているという点。だから最初に言った記事で使った表現は基本作中で登場人物が言った言葉を使っているということができた。二週目をプレイすると分かるが、作中の言葉ひとつひとつが真理を突いている。これがもし全て狙っていたのだとしたら、榊原拓の技量はやはりトップクラスだ。

次にラストの戦争についてだ。王国軍とその他混成軍の戦い。目的もわからず、されどみな確固たる信念をもって戦場に立っているそのあまりに悲しく,惨めで、にもかかわらず各々が信念を貫くその姿があまりに美しい。そのような描写を一片の狂いなく描き切ったこともやはり素晴らしいと言う他ない。

この作品は永遠に私の心に残り続けるだろう。96点とは付けたものの、これ以上の作品に出合えるということは、そう多くはないだろう。というかあるかもわからない。私にとってそれだけの価値がある作品だ。だから私はオーガストという企業には未だ期待を寄せずにはいられない。

 

 

点数:96/100 文章:8/10 味:旨味、苦味 終始旨味を感じさせつつ、適度に苦味を入れる良い味わい。