本記事は『アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-』について知らないほうがいいことが多数含まれております。ご注意ください。
はじめにと最後には大丈夫です。
はじめに
ここでは大層な考察を披露するつもりはありません。飽く迄プレイした人ならわかることをつらつらと並べて感慨に耽る、そんな記事を目指しています。
前にも穢翼のユースティアについての長ったらしい報告という記事を書きましたが、それと同様『長ったらしい報告』では個人的にお気に入りの作品について語るというものです。今回対象となった『アメイジング・グレイス』、具体的な点数で言えば87点とユースティアと比べて大きく劣るものであります。しかし何度も申し上げている通り点数と言っても飽く迄その作品の一面的要素の評価でしかなく、それだけですべてを決めるというのはやめていただきたい。全体として見た場合、優れている点、また雑な点、そういったものを総合評価したものがここでの「点数」であります。どんなにこの部分が良くとも、他に悪い部分があれば総合評価は落としています。また、個人的な感情、つまるところ「好き」についてもなるべく排除するように努めています。
そうした観点で見た場合、どうしても「点数」だけでは語れぬことが多くあります。そのためにこのブログを立ち上げ、また本文をしっかり読んでほしいという思いから「点数」等は最後に表記しています。私としましては作品を評価する際に最も見てほしいのが「好き」か否か、ということです。事実『アメイジング・グレイス』は単なる「好き」度合で言えば100点に近いものであり、それは『穢翼のユースティア』すらも上回ると思っております。しかしながら「好き」の数値化にはなかなか難しいものがあり、故にこそこうやって文章を書くことによって表しています。
また今回この記事を書くにあたって最も大きな要因となったのがあめぐれの二週目をプレイしていたということ。それによって一週目では拾えなかった伏線が次々と発見でき、前回とはまた少し違った視点で楽しめたというのも大きかったと思います。
例の壁画事件
そういえば、時計がなぜか音声で時間を伝えていて、なぜかロックは音声認識という無駄にハイテクな機械で、ビデオ再生機のボタンは記号だけで、街中だってどこにも文字はない。
パスワードを用いなくとも入室できる施錠システム。
カレンダーがなくても日付を確認できる文字盤のついていない時計。
禁止事項をひと目で指し示した‘‘絵‘‘。
(だからこそ──この町の人は、絵から意図を汲み取る能力を持っている)
そう、文字がない。
普通なら絶対にある筈のもので、普通なら絶対にないわけがない。それを物語終盤までまったくそのことを意識させず、にもかかかわらずそれを匂わせるような描写は多くある。作中での「聖書」の扱いもまた巧く、キリエに密着して初めて地下室に侵入した時、キリエは書類の山を全て「聖書」であると言った。そこはシュウの言葉から察するにすぐ目の前のものすらまともに認識することはできず、たとえ本であると認識できたとしても聖書であるとはわかるわけもない。だがキリエは聖書だと言った。
何故だ? それは本を知らなかったから。本というものを、聖書という形でしか知らなかったから。
これが、こんなものが──壁画だなんてあるはずがない!
「本当のことなんだよ!! ただの落書きじゃないんだ!!」
それは落書きでこそあれ、絵でも模様でもない、12月25日を予言した警告文だった。
「見たまんま──文字通りの意味だよ、ここに書いてあることは事実なんだ!」
……ない。……ない。……ない。……ない。……ない。……ない。……ない。
ない。ない。ない。ない。どこにも、ない。
文字が、ない。
そんなこと誰が予測できようか。ある筈のもの。ない筈がないもの。文字。それを欠いて発展した文明などないというほどに重要な存在。だがそれを欠いた状態で彼らは生活している。明らかな作為。それを目の前にして、私はただただ固まっていた。驚きすらも烏滸がましい、まさに天才の所業を前にして、平伏していた。
ここに至るまでの道、演出、そしてライターの力量、全てが綺麗にかみ合って、一つの到達点が生まれた。
名女優キリエは天才がすぎる
物語の始まりから、終盤ギドウと対峙するまで一切ぼろを出さなかった天才女優キリエ。しかしそれをほのめかす描写は作中幾つもあって、例えばオーロラナイトの占いの回ではキリエが最初ヘビ(一芸に特化した天才タイプ。周囲の人とは違う存在であることが多い)選んだが、直後ライオン(保守的な性格とは真逆、常に目の前の壁を越えようとするチャレンジャータイプ)を選んだこと。コトハが何度も「私は女優キリエの大ファンなんだ」と言い、決して監督キリエが好きとは言わなかったこと。
「ギドウは、あたしに共感してほしいとかなんとか言ってっけどさ────」
そして、そんなキリエの口からは。
誰もが予想しえなかったであろう言葉が出る。
「あたし、それ、全然わかんねーんだわ」
はあーーーー!? いやー、天晴ですよね。こんなにも綺麗に騙されるとは。特に壁画事件の後で警戒心丸出しだったから余計に。ギドウの言う通り、こんな天才に負かされるのなら本望ですよ。どうですか、名監督コトハさん。名女優キリエさんの演技は。見事破壊に魅せられた監督という役を演じきったキリエさんと、女優という役を演じきったコトハさん。私はこの演劇になら、言い値を払いますよええ。
エヴァーハルトさん!?
ここら辺の繋がり、他と比べると重要度は少し薄れるものの、気が付くと非常に気持ちのいいものだった。初見時ギドウあたりの名前まで見るとあとはもういいやということでリリィ先生やアンナ(画像)のほうは見ていなかったためリラの正体について頭を悩ませていた。
先ずアンナ=リラ。それでアンナはフォークトラントのアレイアの学生。当時18かそこらとして推定年齢56あたり。おそらくリリィ先生は娘。また青リンゴを食べていて、ループを経験済み。赤リンゴは恐らく死亡で特に匂わせる描写もなし。
作中何度も出てくる映画『時を巡るアンナ』。
そしてフォークトラントの解体、足寄町同様「アポカリプス」で破壊される予定だったが、何者かに邪魔をされ、結局無事に解体されることとなった。
これらが全て繋がっていると分かった瞬間の快感と言ったら。
それとリラはキリエがオムツ買ってたお店のばあちゃんというのをよく聞くが、それについてはよくわからない。まぁ町の中にいることは確定で、他に余ってる人と言ったらこの人しかいないので多分あってるんだろうけど。
アンナはシュウたちと同じことを経験してきたんだと思うと、心が沸き立つ。でもそれだけにリリィ先生密着時のアポカリプスで逃げ惑う人たちを少し小馬鹿にしたような態度は納得しかねる。
リラもね、別にみんなを見殺しにしたいわけじゃないんだよ? でもあんまり手出しはすべきじゃないかなーって」
「リラのいる場所なら安全だけど、ここをみんなに教えるわけにもいかないし……」
「悲惨な現実だけどさ。諦めなければきっと奇跡は起こるんだって信じてるから。ほら、お祈りすることの大切さは知ってるでしょ?」
「この町はやっぱりさ……そういう‘‘運命‘‘なんだよね」
でも今思い返してみるとリラの状況が何となく察せるし、別に変ではない……かな? まぁリラも体制側についてしまったということかな。自分も同じことを経験して、彼らをかわいそうに思う一方、仕方ないと思う気持も。最後の‘‘運命‘‘という言葉を見るに、いろんな気持ちが混ざってたんだろうなぁとは。
追伸:この二人声優も同じなんですね。最初もしかしてリラはリリィ先生なんじゃねとか思ってたけど強ち間違いでもなかったね
至上の美意識
本作が最もリソースを割いていた要素と言うと、私は「美意識」の認識を読者にしっかりと行わせることだと思う。作中では一貫して「美」の至上性について説き、結果ギドウの犯行動機は飽く迄作品の制作であると納得できた。
最初に「敵」の犯行動機について話したのはコトハ√でのキリエだった。
「決まってんだろ。美意識だよ」
「ヨハネの黙示録に合わせて行動決めるような奴ならなおさらだ。誰がどう考えてもそっちの方が美しい」
「どうせやるなら綺麗に済ませないと意味がねえ。ただむちゃくちゃやったってストレス解消にしかならんだろ」
この時明らかに異常である筈の動機が、なぜかすっと呑み込めた。同時に「あっ……!」と気付かされた。ここに来るまでに他にもたくさんのループをして、この町の「常識」に触れてきた。幼い頃から美術ばかりを習ってきて、時にそれは倫理すらも凌駕し得る。それはわかっていた筈だった。新たな着想を得ることができずにドラッグに手を染める、そんな人がいても流石にこれほどのことはないと思っていた。
キリエがあっけらかんと言ったのも効果的だったのかもしれない。それほどだったということだからだ。本当に、「敵」は美意識のみで、アポカリプスを起こしているのだと。そしてキリエも、コトハも、十分に納得できる理由だと判断している。これは、アポカリプスは、一つの芸術作品であると、この時認識させられた。
グッとくる場面
「しょうがないなあ、シュウ君は……」
「なんでも一人で抱え込まないの。そんなの、私の責任でもあるんだから」
そっと……優しく俺を抱きしめてくれた。
「今のシュウ君と会えるのは──これがもう最後なんでしょう? じゃあこれくらい、いいよね」
「泣いちゃダメ。今の私たちが別れても、 また会えるんだから……ね?」
これはシュウがその周回は失敗と悟り、そのことをコトハが察して慰めているところ。心の揺れとしては比較的落ち着いているものの、個人的にはサクヤが泣いているシーンに匹敵するとも思う。
最後の「泣いちゃダメ。今の私たちが別れても、また会えるんだから……ね?」の部分で涙腺決壊ですよもう。コトハという人間の強さがよく表れている。この周回で得たもの、それはあまりに大きく、もしかすれば次の周回で円満解決できるかもしれない。けれどここに逃げ込めば少なくとも自分と自分の大切な人は助かる。次はそれが無理かもしれない。そんなことはシュウ自身が誰よりもわかっているし、シュウがわかっているということをコトハもまたわかっている。付き合っているわけではないけど、お互いを大切に思っていて、でもこの関係は全て消えてしまう。そんなコトハを想像するのはつらいし、そんな自分を想像するのもつらい。
だから最後にこれくらいのことしたって、別にいいだろう……? 悲しいけど、また会えるから。シュウ君は行っておいで。私は大丈夫だから。
「サクヤは──先輩と一緒に生きていられるなら、それ以上は望みません」
「隣に先輩がいてくれるなら……どんな壁だって、乗り越えられるって信じてますから」
いつか──この町も、町のみんなも、全てを救える大団円にしてみせるから。
「きっと、また──会えるから」
この世界で唯一、同じ宿命を背負い、同じ目的を持った二人。けれども彼らのパートナーの目的は悲しいほどに相反していて、畢竟シュウとサクヤも道を違えることが運命づけられた。シュウは1年近くこの町で過ごし、サクヤは18年もの歳月をこの町と、そしてシュウと過ごしてきた。
一週目で感じることと言えばこの直前までサクヤが「敵」だと思っていた人たちがその推理は間違っているのかもしれないと思う、もしくは言動の端々からにじみ出る度を越えた悲しみからサクヤが「敵」であると強く確信する。このどちらかが多いと思う。
一方二週目以降のプレイではサクヤの並々ならぬ思いを知っているため、涙を流さずにはいられない。サクヤは知っていた。アポカリプスが失敗する限り、ギドウがやり直しを願って、アポカリプスが成功する限り、ユネかシュウがやり直しを願う。
そうして出た結論が、アポカリプスを成功させ、加えてシュウやその友人たちは脱出させるというパターン。これなら少なくともユネはやり直しを願わなかった。町が崩壊するのはつらかったけど、みんながいてくれるなら大丈夫だから。
サクヤだって町が壊れるのは嫌だった。しかしこれが最善。この上ない成功と言える。なのに、なのにシュウは受け入れなかった。「敵」の正体も目的もわからないままでは到底終わることはできないからだ。この時サクヤはきっと途方もない絶望に打ちひしがれたのだろう。これで無理なら最早このループを終わらせることは不可能なのではないか。それだけに最終ループ(正確にはそうではないが)でギドウを止め、シュウに自らのしたこと、想い、またその時間を打ち明けた時の喜びは計り知れぬものであった。
「振り向いてほしいんです。構ってほしいんです。サクヤはわがままなんです。すけべな先輩のことがこの世の何より好きなんです」
「先輩と──結ばれたらいいな、って……ずっと、思ってました……! そんなの、先輩からしたら迷惑なのに……っ……!」
何年も、何年も、シュウと過ごしてきた想いが溢れて、それはここまでの物語を知っている人ならばどの程度か想像に難くない。かまくらを作ったとき、枕カバーを持ってきてくれた時、アポカリプスのことを聞いた時、これでループが終わるかもしれないと思った時、他の誰かと仲良くしてる時、新しいループが始まったとき。
「何事も──永遠に続くことなんて、ありませんから」
シュウと一緒にかまくらで座りながら言うサクヤはどこか、悟ってしまっているように見えて。すべてを知ってから見ると、悲しまずにはいられなくて。
ああだから、サクヤのことを想わずにはいられないんだ。君の歩んできた道を知りながら、君の告白を無下にできるほど、私は冷酷な人間ではないから。なのに、なのにどうしてそんなに残酷な二択を迫るんだ? サクヤのことは好きだよ。ああ、勿論好きだとも。でも、ユネだって同じように好きなんだ。私には単なる愛情を超えた、とても大切な人が二人もいる。でも、そうだな……敢えて二人のどちらかを選ぶとすれば……私はユネを選ぶことにしたんだ。ユネはこの町を、みんなを救うために命を削ってようやく願いがかなったかと思えば既に手遅れ。そんなのってあんまりでしょう? 同情ではないよ。単純に一番の功労者が報われていない。そんな現実に我慢ならないだけだ。
こんなさ、ずっと一緒に戦ってきた人がこんな最期を迎えるなんてあっちゃいけないって誰でも思うよね。
だからユネ、君がいなければ何の意味もないんだ。そんなシュウの切実な願いは届き、黄金の林檎を出現させた。これがどんなにご都合主義的な展開だとしても、喜ばずにはいられない。今までのすべてが、シュウに、サクヤに、そしてユネに帰ってきた瞬間だから。
すべてが終わった、アメイジング・グレイスが訪れた。そういうことなんだよ。黄金の林檎がどうとか、あっちのギドウがやばいって話は結局どうなったとか、サクヤまた一年やり直したの? とか、そういう話はいいんだよ。少なくともプレイ中は。
最後に
一生消えない傷跡をこの作品は私に残した。ミスリード、伏線、驚き、そういった要素の物語として、『アメイジング・グレイス』は一つの完成形であると断言する。並ぶ作品あれど、超える作品は出ない。
今回のプレイは2回目であったにもかかわらず、初見時と変わらぬ衝撃を与えられた。知っていたのに、だ。単なるネタバレのように一部分だけではなく細部まで具に知っていたのに、だ。これはもともと私がネタバレに動じない性格であることとは別に、最初にも言ったが、至る道、演出、そしてライターの力量。すべてが綺麗にかみ合っているために、「あの気持ち」を再現するに至ったのだと思う。本作に限らず盤石な力のあるライターはこれができる。だからこそ素晴らしい作品を生み出すことができる。
その素晴らしい作品の頂点に立つ作品、それが『アメイジング・グレイス』である。
人に好き嫌いがあるのは当然のことであるし、気分なども含めてあまり強制するような真似は避けたいが、言わせてほしい。もし未プレイなら取り敢えずプレイして?
絶対に後悔させないとは言わない。実際あまり面白くなかったという声もままある。しかし、だからと言ってこの機会を逃すのはもったいない。人生最高レヴェルの作品に出会えるかもしれない。別にそうでもないかもしれない。
でもね、人生の時間無駄するクソゲだとかそういう話はまず聞いたことがない。だから、ね?
点数:87/100 文章:7/10 味:旨味、酸味少々、苦味ごく僅か